風の聖痕 蒼銀の契約者

プロローグ 後編 別離

 

 

 

彼女たちに会ったのは、幼稚園に 入った頃だった。

はじめに霧と。その後に千香と彩 音お姉ちゃん。

いつも一緒だった。何をするのも 一緒だった。お姉ちゃんは学校で忙しかったけど、僕と千香と霧はいつも一緒だった。

 

「母………さん………」

あの日、僕と千香、彩音お姉ちゃ んの母親が死ぬまでは………。

 

病院からかかってきた電話と、そ れを青ざめた顔で聞いていた千香のおじさんの顔。

出かけるからすぐに準備をしなさ い、と言われた。

僕のお父さんと、煉もすぐに来る から、と言っていた。そう言われても、なにの事かわからずに、ただ言われるままについていった。

横で懸命に何かをこらえているよ うな、彩音お姉ちゃんとおじさんの顔を見ながら。

そして、暗い暗いその部屋で、よ うやく全てを知った。

泣きたかった。声をあげて、枯れ 果てるまで涙を流して涙を流したかった。でも、何の事かよくわかっていない煉は、まだよかったと思う。

でも、そんな僕の横で泣き続ける 千香を見たら、泣くわけにはいかなくなった。

もし、ここで僕まで泣いたら千香 は一生泣き止んでくれなくなる。そんな気がしたから。

僕が千香を守ってやらないといけ ない。そう、思ったから。

だから、僕は涙を流さなかった。

 

 

千香に、本当の事を言うわけには いかなかった。

その日、二人は軽い息抜きで旅行 に出かけていた。そこで運悪く千香が熱を出して、急遽引きかえすことになった。事故は、その途中で起こった……。

千香はお母さんが大好きだったか ら。お母さんさえいてくれれば笑える子だったから。

そんな彼女に、『熱を出した君を 心配して戻ってくる途中で事故にあったんだ』なんていえるはずもなかった。

お前のせいで死んだんだ。そう いっているような気がしたから。

それから千香はしばらくの間、何 も食べる事ができなくなってしまった。話すことすらもできなくなってしまった。

まるで、生きる事を拒否している ようだ。お医者さんはそう言った。このままでは、本当に死んでしまいかねない、とも……

点滴で無理やり栄養を取って、日 に日にやつれていく千香を見るのは本当につらかった。

薬や治療で治せるものじゃない。 千香自身が生きたいと思ってくれないとどうにもならない。

生きる目的を与える必要がある。 医者は、確かにそう言った。

お姉ちゃんもおじさんも、霧も何 とかしようとがんばった。でも、だめだった。そして、千香はどんどんやつれていった。

だから、僕は千香に、初めて嘘を ついた。生きて、もらうために。

僕は、それを言う決意をした。

 

「僕が、呼んだんだ」

「僕が帰ってきてって頼んだん だ」

「そのせいで、事故が起きたん だ」

「僕のせいで、二人は死んだん だ」

当然、その場にいた全員が僕を見 た。動けないでいるはずの千香も、呆然と僕を見つめていた。

「ぁ………ぁ………」

千香が、初めて声をあげた。

「……じゃえ……」

「しきくんなんか、しきなん か…………死んじゃえばいいんだ!しきなんか!!」

それが、千香に言われた言葉だっ た。

千香は、当然怒って僕を恨むよう になった。僕を憎んで、恨んで、怒りをぶつける事を生きる目標にしてくれた。

それからは、何度も何度も殺され かけた。

階段から突き落とされた。刃の出 たカッターを投げつけられた。でも、僕はそう簡単には死ねなかった。

小さい頃から体術を教え込まれて いたから、なんとか致命傷は避けられた。それに―――僕が簡単に死んだら、また千香は生きる目標を失ってしまうから。

真相を知っていたお姉ちゃんやお じさん。霧にも止められた。でも、そんな事はできなかった。僕は千香を守りたかった。自分の身を、犠牲にしても。

 

―――――それから、一年近くの 時間が流れた。

千香の怒りは衰えるばかりか、逆 にエスカレートしていた。僕の傷もどんどん増えていった。

そんな時、二人の女の子に出会っ た。

一人は駅前で。

一人は公園で。

迷子だったみたいだから、何とか してあげようと思った。二人とも、思い切り否定したけど、嘘なのはすぐにわかった。二人の親たちが迎えに来るまで一緒に遊んでいた。すごく楽しかった。

毎日のように痛めつけられていた 僕は、それすらも救いになっていた。

 

 

 

その、数ヵ月後………。

今度は、宗主までもが事故にあっ た。

幸い命に別状はなかったが、足を 一本なくしてしまっていた。

そして、宗主が現役から退き、早 急に神凪の神宝【炎雷覇】の継承を行わなければならない、ということだった。

神凪の嫡子が二人以上存在し、な おかつその二人が次期宗主に相応しいと判断されれば、【継承の儀】が行われるのだった。

でも、僕は神凪の直系ではあるけ れど、炎なんて一つも扱えない。

だから、無能者、と蔑まれ、嘲ら れた。母さんが死んでからは、僕に対する暴行がエスカレートしていたと思う。

だからこそ、【継承の儀】なんて ものは僕には関係ない。そう思っていた。でも―――

 

「お前も、継承の儀に参加するこ とになった。行われるのは一ヵ月後だ。その旨、心得ておけ」

 

と父上に言われたときは本当に驚 いた。

何で僕が?なんでそんなものに?

でも、父上は僕の問いに答えるこ となくその場を去ってしまった。

そこからは、大変だった。

【強化】はまだうまく使えない。

相手は宗主の娘で、僕の再従妹で ある、神凪綾乃。

僕の知るかぎり、炎術の冴えは本 当にすごいらしい。

【継承の儀】では、命を落として もおかしくはない。双方が【炎雷覇】をかけて争うのだから当然だろう。

でも、僕は死ぬわけにはいかな い。怪我をして動けなくなるわけにもいかない。

「困ったら、ここに行きなさい」 と、母さんが言っていた。

なので、言われたとおり、その場 所に行くと、僕のおばあちゃんがそこに住んでいた。

おばあちゃんは僕の話を聞くと、 ある力を教えてくれた。

僕には才能はあるから、頑張れば 少しは扱えるだろう、と言って。

“結界”

傷つけるのではなく、守るための 力。その力を【強化】と同じくらい、必死に修練した。

おばあちゃんの弟子で、マリーア という名前のお姉さんが僕の魔術を見てくれた。でも、マリーアは本当はすごい年をとっている、と言っていた。

魔術回路の構成。スイッチの使い 方。魔術回路の行使方法。

毎日のように通い、【継承の儀】 の前日に、僕は合格点をもらった。

 

そして、次の日―――【継承の 儀】が開催された。

 

 

目の前に対峙するのは、自分より 背の低い少女。本当なら戦いたくなんてない。というより、宗主になんてなりたくもなかった。

目の前の少女は僕を睨んでいる。

完全に“敵”と認識されているら しい。僕のような無能者がこんな神聖な儀式に参加していれば、それも当然かもしれない。

―――――そして、開始の合図が 下された。

 

 

瞬間、綾乃は僕めがけて炎球を撃 ち込んだ。

とっさに飛び退きそれを避ける。

僕は全身で恐怖を感じた。いつも 虐められている分家の人間とは比べるのも愚かしいほどの力の差だった。

「くっ……」

震えだしそうな全身を、全力を もって押さえつける。そうしなければ、本当に泣き出しそうだった。

ゾクッ!

全身が、限界まで危険信号を打ち 鳴らす。

でも、逃げるわけにはいかなかっ た。

綾乃に目を向ける。見えなくて も、感じる。膨大なまでの精霊が綾乃に集う。それはさながら、太陽のようだった。

「これで……終わりよ!」

連続して撃ち込まれる火球。力を ためる事などしない。コンマの隙もなく撃ち出される凶悪なまでの攻撃。それを防ぐ事は、自分には不可能だ。僕そう理解していた。

轟音に次ぐ轟音。凶悪な攻撃は、 あたり一面を光で包みこみ、視界全てを白に染め上げた………。

 

 

「もう終わり、か……。やっぱり あっけないな」

綾乃は、僕を倒したと思ったよう だ。でも、そんな事はあるはずがない。だって僕は、ここに立っているから……。

 

トレース オ ン
――――投影、開始」

その言葉を呟いた。自分の魔術を行使するためのキーコード。頭 の中に浮かぶ撃鉄を叩き落す感じで魔術回路のスイッチを入れる。

これは神凪の術者にはありえない もの。炎術師である彼らには、魔術の知識などほとんど必要ない。さらに言えば魔術回路すら使用はしない。

確かに身体の中に存在しても、そ れを鍛えるよりは炎術の修行をしたほうがよっぽど効果的だから。

呪文を唱える必要がある魔術と、 それを必要としない精霊魔術。どちらが強いかは言うまでもない。彼女も、僕が呪文を唱える間に僕の姿を見つければ、確実に倒せていただろう。

僕が持つ魔術回路は全部で八十。 予備に五十。でも、僕が扱えるのはせいぜい二十まで。だから、それらを総動員してこの戦いを勝ち抜く。

「なっ………!?」

少女が振り向く。でも、僕はそん なところにいない。彼女がさっきまで攻撃していたのは、僕が結界で鏡のように反射させた、ただの虚像なんだから。

「―――創造理念、鑑定

――――基本骨子、想定

――――構成材質、複製
―――製作技術、模倣」

その言葉を言い切り、【投影】を終わらせる。

――――投影、完了」
僕の右手には、剣が握られていた。おばあちゃんの家で見せても らった刀。銘は【正宗】と言っていた。

【強化】は何か魔力を通すべきも のがないと使用できない。ならば、無から作り出す【投影】ならばこの戦いに使う事は可能だった。

彼女は僕の姿を見つけられない。 不可視結界の中にいる僕の姿を、炎術師である彼女が見つけるのは不可能だから。

「どこにいるの!?」

予想通りに事は運んでいる。ここ からは賭けになるけど。

一気に結界から飛び出し、彼女に 肉薄する。気配に気付きとっさに振り向くけど、それも遅い。もともと体術ではこちらが上。ならば、接近戦に持ち込めば勝ち目が見えてくる。

さすがに斬るわけにはいかないの で、峰のほうで肩から袈裟に叩きつける。

直撃する、と思った時―――

【正宗】が、砕け散った。

「え………?」

驚いた。反射的に彼女は自分の周 りに炎を纏い、僕の攻撃を受け止めた。予想以上に彼女の実力は高い。でも、戦うからには負ける気にはなれなかった。

「投影、開始」

先ほどの四工程を再現する。次の 瞬間には、新たに「正宗」が握られていた。

「な、なによ、それ………」

綾乃は目を見開いている。それは そうだろう。彼女は【投影】なんて知らない。いきなり現われた刀に驚かないはずもなかった。

「【投影魔術】。僕は炎術なんか 使えない。だから、自分の可能な範囲での戦い方でやる。僕は君に構う暇なんてない。早く終わらせるよ」

虚勢、というか挑発だった。これ に乗って、怒ってくれればかなり楽になる。我を忘れた人間ほどあしらいやすい相手はいない。

「このっ……!!」

こっちの手に乗ってくれた。で も、怒りは力を増幅させる。彼女の力をどんな手を使っても乗り越えなければならない。

綾乃の周りに炎の精霊が集まる。 太陽にも劣らないほどの熱量は、直撃すれば僕の身体なんて灰も残さないだろう。

綾乃の目が僕を射抜く。殺気、と まではいかなくても、その視線は敵意を超えていた。

瞬間、彼女の周りの炎が数え切れ ないほどの球体に変化する。その熱量は、一つ一つが先ほどの攻撃とは次元が違っていた。さっきまでは手加減をしていてくれたらしい。僕にしてみれば、それ でも恐怖するには充分だったけれど。

彼女の周りにある炎の弾丸は、僕 めがけて、というより逃げる道すら塞ぐように撃ち出される。

一撃で僕は死ぬ。そう、普通なら ば。

――――あくまで【正宗】は囮。 この攻撃を乗り切るには、僕の全魔力では足りない。

ならば増やせばいい。火球が僕を 捕らえるまでの時間は五秒。できれば勝利。できなければ死。極限の二者択一だった。

「投影、開始」

全四工程を省略し、全魔力を回路 に通し、脳裏に存在する二十七のスイッチを叩き落す。

―――――あと、四秒。

【投影】完了。手にあるのはア ゾット剣。術者の魔力を短時間だけ増幅できる。

―――――あと、三秒。

そのアゾット剣を触媒に、知る中 でも最高の結界を展開する。

―――――あと、二秒。

名前はない。僕が作った結界だか ら、好きな名を付けろ、とおばあちゃんは言っていた。僕が知っている最高の防御。その名は―――。

―――――あと、一秒。

【アイアスの城壁】。僕が知って いる中では、もっとも強い防御。それならば、簡単には破られないと思う。

だから、この結界の名は―――

「【アイアス】!!」

 

 

轟音、というより爆音が響き渡 る。回りの全てを残さない、というほどの威力でつるべ撃ちに放たれる小さな太陽。

綾乃は確信する。これを防ぐのは 不可能だ、と。

だが、攻撃の手は緩めない。力の 限界まで撃ち出しつづける。

綾乃は気付いていない。

彼女を後押しするのは怒りではな く、恐怖。命を懸けた、初めての戦い。下手を打てば自分が死ぬ。

獅希は死など恐れていない。い や、それは違う。彼は死を最も恐怖している。一度体感したあの恐怖は本当に怖かったから。でも、死を感じることができる自分が、このときは死ぬ、とは思わ なかったから。でも、綾乃は違う。今までは、一族の誰かに守られ、一族のみんなにもてはやされ、恐怖はおろか、死など考えた事もなかったのだから。

最も死に近く、一族の中で孤立し ていた獅希。

最も死に遠く、一族の中心になっ ていた綾乃。

 

 

両者は対極。

最も死を恐れぬものと、

最も強い力があるもの。

戦いで勝利するためには、力が必 要なのではない。

必要なのは、“心”

精神の、心にある絶対性。自分が 持つ、勝ちたい理由。

綾乃は当然、負けなど考えていな い。後も先も考えない。

獅希は当然、負ける事を前提にし ていた。そして、未来を考えた。

綾乃が勝ちたい理由は、それが当 然だから。

獅希が勝ちたい理由は、護るもの があるから。

力は綾乃のほうが圧倒的に上。

心は獅希のほうが圧倒的に上。

魔術は精神の戦い。精霊魔術も同 じ。ならば、どちらが勝つかはおのずとわかるだろう。

 

 

「ハァッ………ハァッ………」

白く染まる視界が消え始める。綾 乃が炎を撃つのをやめたらしい。荒い息が聞こえる。かく言う僕も、限界が近い。

でも、綾乃が纏う炎の精霊はもは や恐れるほどではない。ここで、限界を超えた力を出されれば、僕は負ける。

でも、ここは間違いなく、勝機 だった。

 

 

「やった………?」

あたしは呟いた。あいつ――獅希 がいたところはもう何も残っていないだろう。あいつが生きているかも怪しい。

でも、あたしは勝たなきゃならな かった。勝つのが当たり前だから。あんな奴に負けてられないから。あんな、路傍の石に負けるなんて考えられなかったから。

なのに…………。

「なん……で……」

あいつは、煙の中に蒼い壁に包ま れて、傷一つなく立っていた。

 

 

煙がはれる。綾乃は僕の姿を見て 驚いているようだった。

当たり前だ。

あの攻撃で、僕みたいな無能者 が、彼女にすれば路傍の石が、あれだけの攻撃を受けて立っているなど考えられないだろう。

「なん……で……」

彼女の声が聞こえる。やっぱり、 僕が立っている事が信じられないみたいだ。

「なんで……なんで……なんで、 なんで!!」

「なんでって言われても……どう 答えればいいの?」

「なんで、あんたが立ってる の!?なんであたしの攻撃が効いてないの!?どうしてよ!!」

綾乃の攻撃が効いてない? 悪い 冗談にしか思えない。魔力だけなら、僕は成熟した魔術師を圧倒するっておばあちゃんが言っていた。

その魔力のほぼ全部が、綾乃の攻 撃を受け止めるのに消費した。ここまでデタラメだなんて考えていなかった。

「さあ、どうしてかな?僕に聞か れてもわからないよ。これが終わった後、宗主に聞いてみればいいんじゃない?」

そう言って僕は綾乃に目を向け る。彼女が召喚できる精霊は、もはやたかが知れている。それなら、防ぎきれないはずはない。

 

「いくぞ。もう、君に力はないだ ろ?」

 

 

あいつに言われて気づいた。あた しは、そんなに多くの精霊は召喚できない。いまので、力を使いすぎてしまった。

「あ……あ…………」

怖い、怖い、怖い。

あいつが怖い。あたしに目を向け ているのに、意識は違うところにある。あたしは今、この儀式より大切なものはない。でも、あいつはこの儀式をただの行事程度にしか見ていない。

あいつの目は、恐怖が映っていな かった。あいつは、あたしの恐怖そのものになっていた。

「う、うああああああああ!!」

だから、それを消し去りたくて、 全力で炎を撃ち出した。

 

 

襲いかかる炎。でも、さっきに比 べればそれらは全て遊びにしか見えない。ならば、止められないはずはない。

「投影、開始」

両手に【正宗】を作り出す。撃ち 出された炎は全部で十二。僕が投影可能な数は十二。

ならば、勝てないはずはない。

難しいはずはない。不可能なこと でもない。元よりこの身は、ただ、それだけに特化した魔術回路だ!

連続の投影。魔術回路が、身体の 神経が悲鳴を上げる。でも、無視できないほどじゃない。まずは四つ。連続の投影で全てを相殺する。

切嗣さんが、効率が悪いと言って いたのがよくわかる。【強化】に比べれば、魔力の消費が激しすぎる。

でも、ここで戦い抜くには、それ でも充分だった。

さらに四つ。加えて二つ。最後の 二つ。相殺しきり、辿り着いたのは僕と綾乃の体術の間合い。

綾乃は、僕に向かってくる。その 両手に炎を纏わせながら。すごい底力。でも、体術ならば僕に圧倒的に有利だった。

 

 

全力で攻撃する綾乃。それを迎え 撃つ獅希。

両者は交錯し、弾かれたように飛 びすさる。

それが、綾乃の敗因だった。

綾乃は体勢を整えるために後ろに 下がった。

獅希は追撃をかけるために後ろに 下がった。

圧倒的なスピード。次の瞬間に は、獅希の掌底が綾乃の鳩尾に突き刺さっていた。

 

 

 

 

 

神凪一族は、混乱の極みにあっ た。

負けるはずのない綾乃が、勝つは ずのない無能者に敗北したのだ。

分家の人間は驚愕に固まり、宗家 のほとんどは信じることができないという面持ちでいた。

現宗主、神凪重悟ですら驚きを隠 せずにいる。

獅希の父親である神凪厳馬は平静 を崩さず、自然体のままだったが。

こちらに向かって獅希が歩いてく る。気を失った綾乃を気遣うように抱えて。

「宗主」

その一言で、場は静まってしまっ た。獅希はそんな事は気にもかけずに、抱えた綾乃を落とさないように重悟に手渡す。

「たぶん、大丈夫だと思いますけ ど、もしかしたら傷ができちゃってるかもしれないから、早く治療してあげてください」

ほとんど満身創痍の自分の事など 気にもかけていない。そんな声音で獅希は重悟に話しかけた。

先ほどまで敵対していた綾乃を、 自分を殺すかもしれなかった少女を気遣うように見つめながら。

「あと、僕は用事があるので、失 礼しますね」

そう言うと、獅希は脱兎のごとく 駆け出した。呆然と自分を見つめる一族の者たちに気付きもせずに。

向かう場所は当然、守るべき幼馴 染みの家だった。

 

 

 

 

 

帰ってきた獅希は、厳馬の私室に 呼び出された。

宗主になる気が、お前にはあるの か、と。

獅希の答えは、厳馬が予想してい たとおりのものだった。

 

 

「ならば、宗主となる意思はない ということか?」

「……はい。僕が神凪の宗主に なったところで、神凪を栄えさせるのは不可能です。元々、炎術師ではない僕が神凪を率いる事自体無茶な話なのです。このまま宗主になれば、神凪の内部の混 乱を招くだけでしょう」

「………そうか」

厳馬はそう呟くと、沈黙する。居 心地の悪い空気が部屋中に蔓延する。

「いいだろう。お前は宗主になら ずともよい。宗主には私から伝えておく」

「は、はい」

「それに炎術師の修行もしなくて よい。お前を炎術師に育てようとした事が間違いだったのだ」

「………はい」

「そして、炎術師ではない者が神 凪にいる必要もない」

「……え?」

「わからんか。ならば率直に言お う。獅希、お前を勘当する。どこへなりと失せろ」

「ち……父上……?」

「もう、父ではない。ここに少し は金が入っている。それを持ってさっさと失せろ」

「父上………」

「くどい。さっさと失せろ。お前 はもう、私の息子ではない」

「父上……一つだけ聞かせてくだ さい。僕は………宗主となる以外、あなたに必要とされないのですか………?」

「無能者に用などない」

「…………!!」

その言葉は、今の獅希には厳しす ぎた。

母親の死。幼馴染みからの憎し み。家族に捨てられた痛み。

それら全てが、今までこの針の筵 の中で耐えてきた少年の心を、粉々に砕いてしまった。

次の日を待たず、獅希は家から消 えた。遠いところへ。自分の知る人間のいないところへ。

海外にまで逃げ、香港の地を踏ん だ時、彼はやっと安息の息をついた。

かの地で待つ惨劇を知る事もな く。

その惨劇から、親友となる彼女に 出会うまで、獅希は一度たりとも笑顔を見せる事はなくなった。

 

 

そして、六年後。

彼、竜牙獅希がこの地、日本に再 び足を踏み入れた頃からこの物語は始まる。

魔術師として、新たに手に入れた 蒼き風の使い手として、彼の戦いという名の運命の輪が、廻り始める。

 


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