闇と静寂が支配する 夜。

港が見える丘公園: フランス山。観光スポットとして整備はされているが、公園内は鬱蒼とした木々が生い茂り、自然のままで残されている。無理に開発をしたはいいが、碌な収入 が見込めず、結局は簡単な散歩コース程度しかない公園。管理もろくにされていないその現状は、訪れる者を極端に少なくする。

そんな場所に独り佇 む人影―-漆黒の髪を靡かせ、黒衣を羽織る女性……闇にその身を堕とし、闇に狂う修羅:百合であっ た。

和麻を昏倒させた百合は、半ば昂ぶる心を自制しなが ら、夜の街を駆け、目的の公園に姿を現わし、夜の暗闇の中静かに佇んでいた。

夜中の公園は静まりかえり、いやでも静寂が支配する場所へと変わっている。人影どこ ろか、小動物の声も虫の囀りも聞こえない。

そんな光景に百合は改めて人間の欲深さを思い知る……そうした欲の犠牲になった者の ことを……だが、それが単なる感傷に過ぎないと己のなかで切り捨てる。

人間がどうだというようなことに興味などない…百合が求めるのは一つだけだ。

直に現れる強大な敵に…己の全てをかけて倒す。そのために百合はここに来たのだ。

どれ程経っただろう…瞑想する百合の耳に微かな風のざわめきが聞こえ、閉じていた眼 が開かれる。

風を震わせる火の胎動がゆっくりと……真っ直ぐに近付いてくる。並の妖魔なら、その 波動を感じただけで逃げ出そうとするほどだ。まるで、この夜の闇を染めるかのような輝き……綾乃のそれを太陽と譬えるなら、これは超新星の爆発と譬えられ るだろう。

(これが…神凪の最強)

間違いないと確信した…これ程の強大な波動は久しく感じていないと同時にこれだけの 力の持ち主……神凪の神炎使い。

 

 

――――3年

 

 

言葉にすればたった2文字だが、それでも百合にとっては永劫とも取れるほどの時間の 流れ。あの刻に死んだ百合という存在から受け継ぎし狂気と憎悪を糧に傀儡であり、残照である自分は今日まで生きてきた。

あの日全てを奪った神凪に復讐を誓い、それがようやく始まり…終わろうとしている。 その最大の壁……最強と謳われる神炎使いをこの手で殺す。

それで神凪など終わり……あとはクズだけだ。この神炎使いを倒すために…百合は己の 全てをかける。

そして……遂にその敵が視認できた。

気配を隠すなど微塵も感じさせず、むしろ己の力と存在の絶対性を誇示するような自信 に溢れた気配……悠然と歩くその姿は王者のごとき貫禄を憶える。

「地獄への入口にようこ そ……神凪厳馬」

嘲るような笑みを口元に浮かべ、百合は姿を見せた男に振り返り、その名を呼んだ。

 

 

 

―――――狂気と憎悪に染まった視線を向けて………

 

 

 

風の聖痕    黒の断罪者・蒼き継承者

第拾話    黒と蒼の炎

 

 

 

夜の静寂が支配する空間に佇む二人の人影。そして、その一人である神凪厳馬はやや怪 訝そうな表情で眼前に佇む女性を見詰めていた。

「……何者だ」

ほんの僅か…逡巡していた厳馬だったが、発せられた声は静かながら微かな警戒を含ん でいる。それは当然だろう…この場に来たのは別の目的だ。

己の愚息である和麻と戦うためにこの場に来たというのに、そこで待っていたのは別の 相手。厳馬には見覚えのある顔ではない。そして、眼前の女性以外に周囲に気配は感じられない。

加えて…眼前の女性は自らの名を呼んだ。ハッキリとした敵意を含んで。それだけで厳 馬にとっては敵であると認識されたようなものだ。

「お目当てのお相手が現れな くて不満? でも、夜のデートは私に付き合ってもらう」

自分の考えを見透かされたようで厳馬の表情がますます険しくなる。そして、厳馬は何 かに思い至ったのか、低い声を発した。

「貴様か…和麻といた女…… 黒炎の使い手」

雅人から受けた報告のなかにあった黒き炎の使い手……その問い掛けに御名答とばかり に百合は笑みを浮かべ、持ち上げた腕から漆黒の靄が迸る。

その黒き靄のなかに混じるのは、激しい怒りと憎しみ…それを感じ取った厳馬は嫌悪感 を見せる。

「愚かな…そのような邪な炎 で神凪を滅するなど、信念を持たぬ炎など、私には通じぬ」

威厳を揺るぎない自信を漂わせ、厳馬は言い放つも…その言葉に百合は口元を緩ませ る。

「っくく…くくく…あははは はははっ!」

心底おかしいとばかりに高らかに笑う百合に厳馬は視線を厳しくする。

「この期に及んで何を言うか と思えば…邪? 信念? 反吐が出るわ……」

殺気を込めた視線…厳馬も思わず気圧されそうになるも、それを堪える。

(これ程の殺気を感じると は…)

「私にあるのは貴様ら神凪に 対する怒りと憎しみのみ…貴様らに、生きる資格も価値もない。地獄へ…魂さえも焼き尽くす地獄へ…誘ってやるわ……」

 

―――――下衆が

 

その言葉を発した瞬間、厳馬から炎が立ち昇り、百合に襲い掛かった。

だが、その炎が着弾した瞬間…百合の姿はそこにはなかった。厳馬もまた視線を上げる と、遥か空中に舞い飛ぶ百合が映り、百合はそのまま空中で身体の向きを変え、降り立つ。

ゆっくりと顔を上げる百合に厳馬の視線は鋭くなる。

「神凪を愚弄するなど、この 私が赦さん」

――――赦さない?

――――どの口がそんな戯言をほざく…なら、静かに暮らしていた自分達を滅ぼした貴 様らは赦されるというのか?

黒き靄が燐分を漂わせ、黒き炎が迸る。

 

赦さない―――

たとえ…神が赦そうが、私は赦さない―――

この世界の誰が赦そうが…私は赦さない――――

 

「殺す」

小さく吐き捨てた瞬間、百合の右腕から立ち昇る漆黒の炎……構える厳馬に向けて黒き 炎が突き進む。

「さあ! 始めましょうか、悪夢をね!! 神凪 厳馬!!」

咆哮とともに解き放たれた炎…夜の静寂を打ち破るかのごとく……炎と炎がぶつかり合 い、辺りは閃光に包まれる。

黒き炎は鋭い刃のごとく襲い掛かるも、厳馬の身体を覆った金色の炎に阻まれ、霧散し ていく。

「……そ の程度、私には通じん」

揺るぎない自信と圧倒的な格を見せ付け、強者として君臨する厳馬……だが、百合の顔 には恐怖はなかった。

いや、むしろ歓喜に打ち震えていた…狂気という名の歓喜に………

「くく く。流石は神炎使い。この程度では通じない……あはははっそうよ、そうでなくちゃ…殺し甲斐がないっ」

再度振り被り、百合は黒炎を生み出し、収束させていく。

次の瞬間、先程よりも数を増した漆黒の炎刃が、今度は縦横無尽にタイミングを変えて 駆け抜ける。

だが、厳馬はそれを、またもや微動だにせず受け止めようと佇む。同じ技を多少変えた ところで通じないという自信だったのだろうが、金色の炎に激突した黒炎の刃が金色の炎を喰らうように侵食し、厳馬が眼を微かに瞬いた瞬間、金色の炎が呑ま れ、障壁を失った厳馬の身体へと降り注いだ。

「ぬ うっ!」

だが、咄嗟に防御したおかげで掠り傷に抑え込んだものの、正面から受けた炎に弾き飛 ばされる。

大地を抉りながら踏み止まる厳馬…堪えたと思った瞬間、眼前に百合の姿はなかった。

「っ!?」

瞬時に顔を上げると、厳馬のほぼ直上にて舞う黒き影…百合は腰から禍炎神を抜き、一 閃する。

黒き斬撃が厳馬を掠める。鮮血が微かに飛ぶが、百合は流れるように禍炎神の刀身を大 地に突き刺し、それを支点に身体をバネのように振り被った。

刹那、鈍い衝撃が厳馬の腹部を襲う…百合の蹴りが喰い込んでいた。百合はそのまま動 きを止めず、その喰い込んだ肉壁に力を込め、突き刺さる刀身を引き抜き、回転するように禍炎神を振り下ろす。

刀身に迸る黒き炎が厳馬の身体を斬り裂いた。

「ぐおお おっ!」

厳馬は呻き声を上げ、その場に蹲る。

傷口からは血が溢れず、炎によって焦がされた後が肉片を黒ずませていた。それは、組 織の崩壊…肉片の腐りを意味する。

苦悶に呻く厳馬に向けて悠然と佇む百合。

「どう?  斬ると灼く…二つの痛みを同時に味わった気分は? あんた達神凪には縁のない痛みでしょうね」

愉悦を感じさせる口調…刃で斬り裂いた傷口を瞬く間すらない瞬間で焼き焦がす。斬り 口は焼け爛れ、縫合さえもうまくいかない程腐り落とす。

綾乃が、炎雷覇で妖魔に幾度となく味あわせた神凪の技…百合なりの皮肉を込めた技 だ。

もっと も、その威力は綾乃のものとは比べ物にならないほど研ぎ澄まされているだろうが…厳馬は胸板を抑えながら百合を睨みつける。

まさか、これ程の力が備わっているとは、予想外だった。厳馬は微かに驚愕しながら も、それを抑え込んで、精霊を防御に集中させる。

確かに相手の力量は侮れないが、聖霊術師の戦いの基本はより力を高めた者の方が有 利。

収束する炎…厳馬はもはや手加減などという甘い考えを捨て、自らの精霊を集中させ る。眼前に立ちはだかるのは神凪にとって最大の敵なのだ。

「貴様と これ以上遊ぶつもりはない……決めさせてもらう!」

宣言と同時に厳馬から爆発的に炎が舞い上がる……唸りを上げるその姿は、まるで巨大 な竜を思わせる。

吹き荒む炎が大気を振るわせ、百合の黒髪を激しく靡かせる。刹那、炎は獲物を狙うか のごとく一直線に襲い掛かってくるが、百合は鼻を鳴らし、次の瞬間…百合の姿が残像のように消え失せる。目標を見失った炎は大地を噛み砕き、なおも勢いを 止めず、疾走する百合の後を追い、襲い掛かる。

全神経を集中させ、全方向に注意を向ける。竜の牙を、まるで羽毛のように身を傾けて かわす。

残像を残しながら駆ける百合に厳馬は微かな苛立ちを憶えていた。

「どうし た、逃げるだけか?」

半ば、罵るような口調……だが、百合はそんな言葉に反応すらせず、完全に姿が見えな くなる。

微かに瞬いた瞬間、厳馬は背後に気配を感じ取った。だが、それは同時に百合に背中を とられたことを意味していた。

振り払われる剣閃と炎が厳馬の背中を斬り裂き、厳馬は呻き声を上げる。

「ぐぁっ」

胸だけでなく背中にまで負った焼け傷は想像を絶する痛みを齎していた。蹲る厳馬の前 に姿を見せる百合。

「神炎使 い…確かに精霊術に関しては秀でているようだけど、それだけね。そんな動きじゃ、私には通じない」

嘲笑を浮かべる。

厳馬の炎は確かに凄まじい…まともに喰らえば、百合とてただでは済まないだろう。だ が、所詮は力だけ。戦闘の基本は力のぶつかりだけではない。技、駆け引き、動体視力、反応速度、経験…それらが合わさって、初めて力を成す。

ただ力だけあれば勝てるというのは愚者の考え方だ。

だが、厳馬はその愚者であった。神炎という最上級の炎を使える程の才能はあるといっ ても、厳馬はそれ以外を極めようとはしなかった。多少武術の心得を持った程度で、極めるという事を放棄したのだ。

炎を使うことこそ神凪の全て…それが、厳馬の行動理念だった。

そんな己の未熟を鑑みることすらせず、厳馬は再度炎を収束させていく。それは、炎を 当てれば勝てるという絶対の自信か…わざわざ戦場で自ら弾に当たりに行く馬鹿がどこの世界にいる? そう問い掛けたいぐらいだが、百合はその挑発にのって やろうとした。

「その 炎、私に当ててみなさい…私はここを一歩も動かないわ」

その言葉に一瞬眉を寄せる。ただの挑発かと思ったが、百合は不適な表情を浮かべたま まその場に佇んでいる。

「さあ、 どうしたの? 私を倒す絶好のチャンスをくれてやってるのよ」

誘う百合に厳馬は思考を止め、右手に収束した炎を解き放つ。先程よりも巨大な炎が一 直線に百合に襲い掛かる。

だが、宣言どおり百合はその場を一歩も動かない。不審に思うことなく仕留めたと確信 した瞬間、厳馬の眼が驚愕に見開かれる。

百合は右手を翳し、炎を受け止めたのだ…圧倒的な炎の量が百合の右手によって止めら れ、百合は微かに歯噛みする。

「ぐっ、 くくっ」

大地に足をめり込ませながら踏み止まり、炎が次の瞬間…百合が右手を振り払ったと同 時に霧散した。

「はぁ、 はぁ…流石ね。分家のクズやあの未熟娘とは一味も二味も違う」

微かに呼吸を荒げながら、百合は痺れる右手を握り締める。腕を覆っていた服は焼け焦 げ、消滅してしまった。露になった右腕からは僅かに煙が燻っている。

だが、厳馬の眼はその右腕に刻まれたものに釘付けになった。

右腕に大きく刻まれたもの…蛇とも竜とも取れるような生き物のごとく、黒い痣が右腕 を走り、言い知れぬ不気味さを醸し出している。

「危険 だ、貴様は…もはや生かしておくことはできん。私の全力を以って、滅する」

厳馬は察したのだ。ソレが……自分にとって…いや、神凪にとって忌むべき災いを齎す ものであることを――――

厳馬は意識を集中させ、今しがたよりも力を編み上げ、強大な炎を召還する。

膨張する炎が生み出され、厳馬の内を滾らせるかのごとく迸る。百合もまたやや表情を 引き締め、厳馬の動きに眼を配る。

そして、ゆっくりと右手を上げ…百合はある一点に狙いをつけ、気を収束させた。

刹那、厳馬の右手が突如燃え出した。

「なっ!」

炎術師にとって、己の身体が燃えるなど、決してないこと。故に、厳馬はその自体に一 瞬の隙をつくり、それが厳馬の造り出した炎の制御を手放した。

最大にまで高められた炎は一瞬の出来事で、厳馬目掛けて暴発し、放たれた衝撃波は木 々を薙ぎ払い、葉を毟り取り、周囲のものが吹き飛び、街灯が砕け散った……厳馬の状態は解からないが、それでも爆心地一帯は無残な状態となっている。

火が酸素を用いて燃えるというのは一般的なイメージだが、それ以上に人体発火になっ た場合、人間の肌には脂があり、それを媒体にして起こる。神凪の人間といえど、その身体は人間のもの。妖魔の血を持つ自分とは身体の構造が違う。

そして、百合は厳馬の炎が最大にまで膨れた瞬間、厳馬の右腕に浮かび上がった脂と、 周辺の燐分に着火させ、炎を発生させた。

無論、精霊の加護を受けている神凪の身体を発火させるのは並みの芸当ではない。百合 は、炎の精霊を極限まで圧縮し、厳馬の炎と同等の威力を持たせ、ぶつけたのだ。

炎は確かに攻撃に特化した属性だが、それは巨大に炎を燃やせばいいというわけでもな い。その炎を一点に収束・縮小し、相手に気づかれずに攻撃を繰り出すことも可能なのだ。

戦いにおいて、いかに敵を素早く葬るか…魔界で常に一対多数の戦いを潜り抜けてきた 百合が常に考えていたのがこれだった。わざわざ巨大な炎を発生させては隙が大きくなり、また敵に動きを読まれてしまう。戦いのなかで炎を昇華させた百合に とっては容易いことだった。

限界にまで達していた炎は暴発し、術者に襲い掛かる。だが、百合は無言のまま爆心地 を見詰めている。

爆心地の中心が微かに動き、百合は視線を向けると、その下からは這い上がるように立 ち上がってくる厳馬の姿があった。

だが、その姿は痛ましい。炎をまともに受け、右腕は焼け爛れ、全身から煙を噴き上げ ている。

呼吸を乱していた厳馬だったが、その呼吸が変わる。

微かな大気の乱れ…精霊の気の流れ…それらを察した百合は身構える。

(く るっ)

そう…間違いない。

百合の推測は厳馬を確認した瞬間、確信に変わった。

蒼くゆらめく霊気が厳馬の身体から噴き上がり、燻っていた赤黒い炎が洗礼を浴びたよ うに蒼く染め上げられていく。蒼い気を浴びた精霊はやはり蒼い炎として具現化し、眩いばかりの金色の炎に変わり蒼い炎が周囲を彩る。

「これ が、神凪厳馬の蒼炎」

ポツリと漏らす。

今まで決して致命傷を与えなかった百合。その気になれば、厳馬の背中をとった瞬間に 心臓を貫くことも可能だった。だが、それで百合の気が収まるはずもない。

油断した相手を殺すのも…まして、本気を出した神凪を殺せないなど……百合の…生涯 の全てをかけて望んだものが永遠に果たされなくなる。

だからこそ、待ち望んだこの瞬間…遂にくる。神凪の『最強』が…揺らめく蒼き炎。

神炎というものを見るのは初めてだ。魔を浄化する最高位の黄金の炎をさらに上回る… 卓越した力をもつ者のみに許された術者の気を色として炎に宿す者こそ、神凪が誇る神炎使い……千年にも及ぶ神凪の歴史においてこれを行使できたものは僅か 11人………そして、この時代における神炎使いが、蒼炎の厳馬…紫炎の重悟………

その圧倒的な力に、百合の右腕は疼くような感覚を走らせ、百合の持つ黒炎が騒ぎ立て る。

 

 

 

―――喰らえ

黙れ

――――喰らえ

黙れ

―――――喰らえ

黙れ

――――――喰らえ

黙れ

―――――――喰らえ

黙れ

 

 

 

(うるさ いっ黙れっ)

内に響く声に叫び、百合は右手を握り締める。

意志を乗っ取られそうだ。蒼炎に黒炎が反応し、その力を喰らおうと百合の意識を狩ろ うろしている。

衝動が内を蝕み、百合はそれを必死に抑え込む。

この炎を打ち破ってこそ、自分の復讐は終わる…過去の自分自身を殺せる…完全に決別 できる……終われる――――決然とした面持ちで顔を上げる。

刹那、周囲から音が消えた――――

神凪としての誇りを振り翳し、厳馬は持てる力全てを自らの蒼炎に収束させ、放った。

厳馬から放たれた蒼炎は竜の如く巨大な奔流となって一直線に突き進んでいく。だが、 百合は逃げようともしない。

真っ向から蒼炎に挑もうというのだ…傍から見れば愚かだろうが、百合はこの瞬間こ そ、なによりも待ち侘びたもの。

魔界での戦いの日々が…黒炎を得、それにもがき苦しみ……地べたを這いずり回り、辛 辣を舐めてで決して消えることのなかった黒き憎悪が……百合の身体を突き動かした。

そして… 蒼炎が百合の身体を呑み込んだ。

蒼き炎に身を喰らわれていく…傷みさえも感じない一瞬の出来事かもしれない。

(うう うっ)

全身が熱い。意識が朦朧とする。四肢の感覚がない。炎が百合の身体を切り裂き、鮮血 が飛ぶも次の瞬間には炎に触れて蒸発する。

(うぁぁぁぁっ!)

意識を手放せ―――そんな甘い誘惑が過ぎる。

この傷みから解放される…そう囁く……だが、百合は歯噛みしながらも意識を保つ。

(黙れっ 精霊王! 私は、私は―――殺してやる殺してやる殺してやるっ)

全てを…己を含めた全てを……憎悪の全てを殺すまで………内に巣食う己自身に向かっ て叫び、ねじ伏せた。

刹那、百合の右眼が真紅に輝き、右腕の黒き痣から解き放たれるように黒炎が迸った。

百合が蒼炎に呑まれた様を見届けた厳馬は僅かながら警戒を緩める。

敵とはいえ、厳馬にここまで傷を負わせ、さらには蒼炎まで使わせたのだ。恐らく今ま でのどの妖魔ともレベルが違うが、所詮は自分の敵ではなかった。

ゆっくりと身を起こし、背を向ける。もはや勝負は決まった。蒼炎が相手の全てを灼き 尽くすまでは消えない。

だが、次の瞬間…背後から湧き上がった凄まじい気配に厳馬はハッと振り返った。

蒼き炎が震えるように揺れ、その蒼炎の内側から喰い破るように突き出す黒い靄のよう なプロミネンス。

獣のごとき咆哮を滾らせるように衝撃を唸らせ、蒼い炎を喰らうように包んでいく。そ して…完全に蒼が消え失せ、炎が黒く変色した瞬間、黒炎が渦のように立ち昇り、その中心に佇む人影に厳馬は眼を見開いた。

渦のように足元から立ち昇る黒き炎。その中心に佇む黒髪を上へと靡かせる百合。微か に持ち上げる右手からは黒炎が溢れ出している。

開かれた眼…真紅と漆黒の瞳が厳馬を射抜くように見詰めている。その瞳に宿るのは… 果てなき闇――憎悪・憤怒・悲哀それら負の感情が全て凝縮されたような無機質で深いもの。

厳馬はその瞳に見入られた瞬間、微かに息を呑んだ。

(馬鹿 な、私が…恐怖、しているだと)

内に向かって吐き捨てる。

だが、厳馬の意志とは裏腹に背中に走る悪寒は収まらない。

触れてはならない禁忌…そんな感情が内を駆け抜ける。百合は静かなまま、己の右手を 翳す。

流れるように右手で腰の禍火神の柄を掴んだ瞬間、厳馬は左腕に衝撃が走った。

 

 

――――空中に舞う人の腕……

 

 

スローモーションのように時間が流れたと思った瞬間、厳馬の背後に着地する百合。

刹那、切断面から滝のように鮮血が噴出し、その痛みに呆然となっていた厳馬は絶叫を 上げた。

「ぐぉぉぉぉっ!!」

ドサっと大地に無残に転がる厳馬の左腕。肩口から切断された面から溢れ出すように流 れる鮮血。血の臭いが周囲に充満する。

百合の右手に握られる禍火神の刀身からは、黒い炎が纏わりついている。その炎は百合 の右腕の痣から伸びていた。

百合が振り返った瞬間、厳馬はとめどなく溢れ出す鮮血を抑えながらも再度蒼炎を放 つ。先程よりも大きい。この戦いが、厳馬に死力を尽くしさせたのだろう。

だが、百合の真紅の瞳が蒼炎を捉えた瞬間、蒼炎は空中で黒き炎へと変貌し、百合の周 囲に護るように移動し、百合の炎と同化していく。

「ば、馬 鹿なっ」

驚愕する厳馬に向けて百合が心底呆れた眼を向ける。

「精霊は より強い意志に反応し、従事する…その理さえ忘れた? 最強の精霊術師さん」

痛快な皮肉を込めた侮蔑。

精霊を行使するのはより強い意志。たとえそれがどのようなものであれ、その場にいる 最強の者に精霊が逆らうはずがない。

精霊の本質はたとえ魔界だろうが人間界だろうが変わらない。精霊に明確な善悪の意志 などないのだ。要はその精霊をどれだけものにできるかだ。

厳馬の蒼炎を形成する精霊に向かって意識を飛ばし、その力を感じ取った精霊は自らそ の従う者へと変わったのだ。

何故なら…ソレは……精霊の理なのだから―――――

 

―――――精霊達が決して逆らえない存在なのだから…たとえそれが……闇の存在だと しても

 

「精霊… 王……」

厳馬はポツリと漏らした。

これ程の圧倒的な精霊の炎を使役するその能力…単に黒炎使いというだけの枠では収ま らない。

考えられる可能性は一つ…精霊の頂点に立つ全ての精霊の王。

すぐさま被りを振る。そんなはずがあるはずない。精霊王は神凪にとって尊ぶものであ り、守護する神なのだ。そんな精霊王があのような禍々しい気配をしているはずがない。

必死に己の信じるものに縋ろうとする厳馬…所詮、その根本は自らを選民とする神凪で あった。

百合は鼻を鳴らし、静かに呼吸を行う。

「神凪厳 馬…あんたの蒼炎、確かにもらったわ」

百合の右腕の痣が蠢き、黒い靄が周囲に充満していく。

「あんた からもらったこの蒼炎の力で…神凪を全て灼きつくしてやる。私の…復讐のためにっ」

命のエネルギーとでもいうべき蒼炎を吸収した今、百合の内に今までなかった高揚感と 力が溢れている。

黒炎の行使は命を削る。ゆうなれば、百合はいつも黒炎の力を最大に発揮するための力 が足りないガス欠の状態だった。だが、蒼炎という力を吸収した今、黒炎はなにものにも負けぬ禍々しさとともに満ち溢れている。

「赦さ ぬ」

「?」

「神凪は 聖霊術師としての拠り所。この世界の理を護るもの。私の命に換えても、神凪を滅ぼさせはせん」

真剣な面持ちでハッキリと自身の決意を告げる厳馬。この状況で絶望していないという のは大した精神力だが、その口から放たれた言葉に、百合は笑い上げた。

「アハハ ハハハッ! 赦さない? この世界の理を護る? 命に換えても…アハハハハ!!」

心底おかしいとでも言うように百合は笑い上げた。

滑稽だ。これ程滑稽なことがあろうか……百合の視線が鋭くなる。

「なら聞 くわ? 神凪はその理とやらに従って今まで何をしてきた? 弱者を虐げ、己に酔い、強欲を貪り、身勝手に命を奪ってきた…神凪厳馬、貴様がそれを知らない とは言わせないっ」

吐き捨てるように言い捨てる。

妖魔を駆る名目に自分達の村を…仲間を……家族を…愛する者を奪ったのは誰だ?

絶望を与えたのは誰だ?

そして、妖魔のみならず、同じ人間を…その護るべき人間とやらまで虐げてきたのは誰 だ?

「そう… 私はお前達神凪に教えられたのよ。所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ……力さえあれば、どんな事も赦されとねっ」

絶望したあの瞬間…百合の心は死んだ。

少女だった心が死んだ刻、その内には鬼が住み着いた。全てを憎み、破壊し、殺すため の修羅が――――

「だから 私は、神凪を滅ぼすっ精霊王という加護に溺れ、この世界を貪る虫けらどもを、一人残らず!!」

黒き炎が百合の全身を覆い、燃え盛る。

「赦さな い? どの口がそれをほざくっ! 貴様らはその存在自体が害悪なのよ! 死になさい…神凪厳馬!!」

もはや躊躇う必要はない。眼前にいるのは人の皮を被った己のエゴに妄執する醜い獣… 振り上げた右腕から黒い炎が迸る。

全てを灼きつくし、喰らいつくす破滅の炎…黒き竜のごとく厳馬に襲い掛かる炎が厳馬 を包み込む。

厳馬はその炎に逃げることさえできない。炎が厳馬の身体を発火させ、血も…肉も…… 全てが炎に呑まれ、灼き尽くされていく……意識が朦朧とするなか、厳馬のなかにあったのは何なのか…だが、百合にとってはどうでもいいことだった。

やがて、意識が混濁したなかに呑み込まれた瞬間…厳馬の命も……魂さえも消え去っ た。

炎が消え ていく――――霧散した後には、無残な焼け跡のみ…その中心には死体の影も形も残っていない。

黒炎が全てを灼き尽くしたのだ。その命のみならず…魂さえも………魔界の黒炎によっ て喰らわれた魂は魔界へと誘われ、永久の苦しみを味わい、二度とこの世界に転生することはない。

「地獄の 業火で…未来永劫、苦しむがいいわ」

吐き捨てた瞬間、百合は視線を落とし、クツクツと笑い出した。

「クク ク…アハハハ………アハハハ」

狂ったように低い声で笑みを噛み殺す。

遂に神凪の最強を―――神炎使いを葬るまでに至った。神の炎に選ばれたという御大層 な存在を、この手で抹殺した。

百合がこの3年間―――いや、永遠とも思える時間のなかで望んできたこと。だがそれ は、勝利を得たことによる歓喜でも、何かを達成したような満足感でもない。

 

 

――――あるのはただ悲壮。

――――あるのはただ空虚

――――あるのはただ自虐

 

 

狂った自分に対する嘲。

嬉しいはずなのに…遂に、自分の復讐を果たせられるというのに………

 

 

 

 

――――何故私ハ哭イテイル ノ

 

 

 

 

炎が消え、その場に佇む百合の心は晴れない。

夜の静寂が百合の顔を覆い隠し、その表情を隠す。

晴れることなどありはしない…永遠に闇のなかを彷徨い歩く……自ら選んだはずなのに ――――

まるで、道に迷った幼子のように…先程までの修羅を感じさせぬ儚く…弱い存在――― 姿を見せた雲に覆われていたはずの月を見上げ、百合は独りごちた。

「月…闇 の世界にとっての寵愛……でも、私には………」

夜の闇のなかで唯一光を輝かせる月…それは、太陽という光の世界で生きることを赦さ れぬ者達に取ってなによりも代え難い寵愛の印。

だが、百合にはその寵愛さえも赦されない――――

暫し月を見上げていた百合は視線を落とし、前髪が揺れて視線を覆い隠す。

どれ程そうしていただろうか……百合はゆっくりと歩み出す。より深い闇のなかへ…月 の寵愛に背を向けるように……

まるでそこが…己の還るべき場所だとでもいうように―――――ゆっくりと視線を上げ る…その瞳は、再び闇の狂気と憎悪に染まっていた。

 

 

 

黒き炎を化身とする…闇の精霊王のコントラクターとして―――――――

 

 


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