風の聖痕    黒の断罪者・蒼き継承者

第伍話    蠢き

 

 

 

 

 

陽が明け、神凪は容疑者であ る和麻に刺客を放っていた…いや、既に話し合う余地など最初からとうのないことは明らかだったろう。

神凪の情報網をもってすれば 容易い……というよりも、全然苦にもならなかった…なぜなら、和麻は偽名も使わずに堂々と本名でホテルに宿泊していたからだ。

そして厳馬の命により、二人 の術者が和麻の確保に向かった。

 

――――結城慎吾と大神武 哉…共に分家ではトップクラスの実力者である。

 

性格が正反対な割には不思議 と相性がよく、二人が組めば宗家以外に敵は無いとさえ言われている。

厳馬にしてみれば手持ちの カードの内、最強の二枚を出しただけだった。

しかし結城家の長男を選んだ ことは、致命的なミスと言ってもよかった。

何せこの男には、和樹を説得 する気など欠片もなかったのだ。

「和麻の野郎、ぶち殺してや る!」

「殺しちゃまずいだろ。少な くても口を聞ける状態で連れて行かないとな」

二人は何度も同じ会話を繰り 返していた。

正確には復讐に燃え、何度注 意しても命令を忘れそうになる慎吾を、武哉がうんざりしながら宥める……その繰り返しだった。

随時入ってくる見張りの報告 によれば、和麻は真っ直ぐこちらに向かっていた。誘い込まれていることにも気付かずに……彼らはこう思っている……狩をしているのは自分達だと。

「まだかな」

「もうすぐだろ」

この会話も飽きるほど繰り返 されていた…二人とも同じ報告を受け取っているのだから、聞いても無駄なことは分かりきっているはずなのだが………

「何やってんだ! 風牙の能 無しはよ! 和麻ひとりくらい、さっさと連れてきやがれ!!」

慎吾は苛立ちは、着実に勤め を果たす風牙衆にまで向けられた。

「心配するなよ。風牙衆はこ ういう仕事に関しては有能だぞ」

慎吾はあえて綺麗事を言うこ とで慎吾を煽る。風牙衆を庇ってやる気はこれっぽっちもない…彼らを口撃することで慎吾の気が逸れるのなら大歓迎だとさえ思っている。

案の定、慎吾は噛み付いてく る。

「けっ、こそこそ嗅ぎまわる のが得意だからって、何の自慢にもならならねーよ」

見下し、蔑みの言葉を吐く。 だが、彼らの考えは愚かとしか言いようがない。

この世界ではいかなる場合で も情報こそが世界を制する…いくら力があっても、情報がなければ意味をなさない。

力だけしか持たない炎術師に は限界がある……だが、驕り高ぶったこの神凪の術者達に、そんなことが解かるはずなどない…いや、理解しようとさえしないだろう…一族以外は全て見下す者 でしかないのだから。

「そう言ってやるな、あいつ らはまともに戦う力もない哀れな連中だ。半端仕事にでも使ってやらなきゃ可哀想だろ?」

「違ぇねえ。ぎゃぁはははは はは!!」

武哉の狙い通り、慎吾は苛立 ちを忘れたようだ。箍が外れた笑い声を聞きながら、武哉は思う……十秒おきに『まだか?』と聞かれるよりは遥かにマシだ、と。

 

 

 

そして…肝心の標的にされた 和麻は、未だ考え込むように唸りながら、偶然にもここに向かって歩いていた……脳裏を掠めるのは、昨晩の事ばかり………不意打ちを喰らった 口付けに、流石の和麻も動揺してしまった。

普段は軽薄な雰囲気の和麻で はあるが、根は凄く純情なのである………

 

 

 

(来ました……五百メートル 前方です、まだ気付かれていません)

不毛な会話を続ける二人の耳 に、見張り役の声が流れてきた。

風牙衆の使う呼霊法と呼ばれ る伝言法だ。風に乗せて、遠隔地まで届けることができる。

しかし、この術者も和麻が既 に自身を狙っている者を察しているとは夢にも思っていない……仮にも風のコントラクター…周囲の気配には敏感だ。

「来たか…手足の一本ずつ焼 いてやる、端っこからな」

誰に言うともなく、慎吾はそ う呟く…眼がギラついており、かなり危ない……処刑法を延々と説明しながら、できれば抵抗して欲しい、と彼は考えていた。

いずれにせよ半殺しは確定だ が、その方がより多くの苦痛を与えられるからだ。

武哉は少し距離を取ってその 様子を眺めていた…こんな危ない奴だったのか、と彼は考えて心の距離をかなり大きく取った。

こうして一つの友情が壊れよ うとしている時、和麻が現れた。

何一つ警戒せず、のこのこ と……少なくとも、彼らの眼にはそう見えた。

そんな和麻に武哉は気取った 声をかける。

「久しぶりだな、和麻!」

「………誰だ、お前?」

意気込んで声を掛けた武哉 は、真顔で答えた和麻に一瞬毒気を抜かれるも……次の瞬間には拳を怒りでワナワナと握り締めていた。

当の和麻は、直前まで百合の ことを考えていたので、本当に誰か判別できなかったのだ……そして、考える仕草をし……何かに思い至ったように右拳を左手にポンと叩いた。

「おおっ、思い出した思い出 した……確か、大神の跡継ぎの………武蔵…だったか? それにそっちが…確か結城家の………誰だっけ?」

慎吾だけは名前がはっきりと 出てこないのか……和麻は至って真面目だが、その飄々とした態度に、慎吾はキレかけの一歩手前まで陥るも、武哉がなんとかそれを抑えた。

「無駄話はいい……用件は解 かるな?」

武哉は血走った眼で炎を放と うとする慎吾を抑え、優越感に満ちた口調で続けた。

「知らん」

即答した和麻は真面目に答え た……面倒は嫌いだった……だが、その態度が逆に相手の怒りを煽っていることを和麻本人が気付いていない。

「結城家のバカなら、昨日 会ったが……失敗したのはあいつの責任だろ?」

肩を竦め、ヤレヤレとばかり に首を振る和麻に、武哉はこめかみに血管を浮かべるが、冷静な振りをして言葉を続ける。

「昨日の夜……神凪の術者が 三人殺された…犯人は風術師だ」

「おいおい…まさか、それが 俺の仕業だって言いたいのか? だったら俺は無実だな…昨日は仕事以外じゃ、神凪の奴と会ってねーし」

投げやりな態度で答える和麻 に、武哉は内心の苛立ちを堪えつつ、言葉を発する。

「だったら言い訳は宗主の前 でしろ…宗主自らご下問される」

「嫌だね」

またもや即答する……神凪に は、二度と戻りたくはなかった……父に疎まれ、母に捨てられ…周りはほとんど敵だった……重悟には会いたいという気持ちは多少なりともあるが、あんな場所 に好き好んで戻りたいなどと思わない。

話を切り上げ、その場を去ろ うとするも…次の瞬間、和麻は弾かれたように真横に飛びすさった。その直後、和麻が居た空間がなんの前触れもなく炎上する。

和麻は……なぜか武哉も…… 身体ごとそこに向き直った。

低い、地を這うような低い声 で嗤う慎吾のいる方角へ………

「くっくっくっ、そーか、つ いてきちゃくれねーか。それじゃあ、力ずくで引きずっていくしかねーよなぁっ!」

絶叫と同時に、慎吾の周囲に 紅蓮の炎が踊った。

爆音と共に出現した炎は慎吾 の身体に絡みつくが、身体や服を焼くことはない……慎吾はむしろ、心地よさそうに眼を細めている。

纏わり付く炎を愛撫するかの ように撫で回しつつ、慎吾は喜悦に唇を歪め、宣告した。

「しゃべれれば問題ねーって 話だからよ、手足は全部灼き尽くしてやる。軽くなった方が持ち運びに便利だからなぁ! まあ、今は殺さねぇでおいてやるよ…けどよ、お前もそんなみっとも ねー格好で生き恥をさらしたくねーだろ? だから宗主のご用件が終わったら殺してやるよ。一週間くらいかけてな!」

眼が完全にイッていた。まと もな人間の眼ではない。ほとんど狂気に駆られた人間の眼だ……完全に、己の力に酔った愚か者の眼だ。

「たっぷり時間をかけて、生 まれてきたことを後悔させてやる。思い知らせてやるぜ! 慎治を殺しやがったてめぇが、のうのうと生きてるなんざ許されるわけねえんだって なぁぁっっ!!」

常軌を逸したその口振りだっ た。狂笑する慎吾を、珍しい生き物でも見るような眼つきで眺めながら、和麻は大真面目な口調で尋ねる。

「神凪じゃあ最近、あーゆう のを 放し飼いにしているのか?……常識を疑うぞ?」

「…いや、ああ……ま あ………」

武哉も流石に言葉をなくして いる。常識人を自認する彼にとって、あれが自分の同類だとは認めがたいことなのだろう。

「あいつは慎治を可愛がって いたからな。慎治を殺したお前を恨んでも仕方がないだろ?」

それでも、武哉も和麻が慎治 を殺したと疑っていない……呆れたように溜め息をつく。

「だから俺じゃねーって…何 度言わせるんだ」

「ならば、宗主の前で釈明し て見せろ」

「俺はもう神凪の人間じゃな い……ましてや濡れ衣着せられてハイ、そうですかって出向くほどお人よしでもない……用件があるならそっちから出向いて来いと言え」

もはや和麻にもこれ以上無駄 話をするつもりはないとばかりに口調が鋭くなる……罵声を浴びせられて、それで怒らない程、今の和麻は弱くはない。

「交渉決裂だな」

最初から交渉ではなく脅迫 だっただろうが……と、和麻は心の中で毒づく。

そんな和麻の心境も知らず、 武哉は『話し合い』による解決を諦め、気を練り上げる。周囲に舞う火の精霊を引きずり寄せ、自らの意思に従わせる。

周囲の温度が肌で感じられる ほど上昇した。まだ具象化すらしていない精霊が、物理変化を引き起こしているのだ。

高まりつつある闘気に怯える ように、紅葉がはらはらと舞い落ちる。

鮮やかな落ち葉は武哉の体に 触れた途端に炎上し、白い灰となって風に溶ける。

それだけで、畏怖を感じるも のだが、和麻は至って冷静だ…ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、二人を眺めている。

確かにどちらも慎治よりも力 は上のようである。二人合わせれば宗家に匹敵すると言われるだけの事はある。

どうやって神凪の炎に対抗す る気 なのか、その姿からは読み取ることが出来ない。

「これが最後のチャンスだ。 大人しく従え、和麻」

最後通告に、和麻は笑みを浮 かべ、中指を立てて呟いた。

 

「面洗って出直してこい」

 

そのあからさまな挑発に慎吾 と武哉は、タイミングを完全に合わせて炎を放った。

「望みどおり殺してやるよ!  死ねやおらあぁ!!」

「この、馬鹿がっ!」

術を発動させる前から二人は 勝利を確信していた。一族でもトップレベルの術者二人による同時攻撃である。

和麻ごときがどんな先を巡ら そうと、凌ぎきれるものではない。だが、そんな二人の予想は大きく外れる。

二人の放った強大な炎は和麻 の身体の到着する直前に何かに阻まれた。それは見えない壁のごとく和麻を守る。

強大な風が、風の精霊が和麻 の身を完全に護っている……風の壁に止められた炎は威力を保ったまま、その場で静止している。

「返すぜ……自分の炎の威 力、しっかりと味わえ」

そう呟いた瞬間、防護壁と なっていた風が四方に弾け飛び……静止していた炎を弾き飛ばした。

炎はそのまま真っ直ぐに術者 に跳ね返ってくる。

勝利を確信していた二人は驚 愕し、避けることさえ忘れていた……炎の着弾の衝撃をまともに受け、二人の身体はその場に叩き付けられた。

それだけで勝負はついた…… 武哉と慎吾は既に意識を失い、身体を痙攣させている。

対し、和麻はポケットに手を 突っ込んだまま……それは、両者の実力の圧倒的な差を表しているように見えた。

軽く欠伸をしながら、和麻は 完全に動かなくなった二人の横を通り過ぎる。そのまま歩き去るかのように見えたが、不意に足を止めた…何気なく振り向き、誰も居ない木立に眼を向ける。

「この馬鹿どもを連れて宗家 に伝えろ…もしやる気なら、俺は容赦しないとな……」

宣告と同時に木立の一本がズ レた…音もなく切断された木が断面に沿って滑り落ちる。

身を隠すことも忘れ、その後 ろに立ち尽くす見張りに背を向け、和麻は再び歩き出す。

見張りの術者は戦慄と共に 悟った。

おびき出されたのは自分達だ と…我々こそが、狩の獲物だったのだと………

 

 

 

 

「へぇ……あれがこの時代に 風の精霊王と契約した男か」

和麻と神凪の一部始終を遥か 離れた場所から眺めていた人影が二つ……片方は、紫の髪に金色の瞳を持った女だ……そしてもう一人は、人と呼ぶにはあまりに異様な姿を持っていた。

「しかし……おとに聞こえた 炎の精霊王の使役…神凪とやらも案外だらしないわね…まあ、所詮はその程度………私が直接手を出さなくても、貴方がいれば神凪など相手ではないわよね」

妖艶な…それでいて悪寒を憶 えさせるような笑みを浮かべ、女は隣で唸る影を見やる。

『殺 し……たい……力が………力が欲しい………』

獣のように唸る影の顔を、あ やすように撫でる。

「フフフ……そんなに我慢し なくてもいいわよ………近くにもう一人…貴方のエサとして打ってつけの者がいるわ………それを喰らいなさい」

氷のような輝きを放つ金色の 瞳が捉えたのは……二人の男を連れた少女…綾乃………

不意に…風が荒れ狂っ た………

 

 

 

 

和麻が武哉と慎吾をいなして いる頃……

「まったく、お父様も心配性 よね。あたし一人で充分だって何度も言ってるのに、いつになったら一人前だって認めてくれるのよ。そんなに私って信用できない?」

「宗主はとっくにお嬢を認め られているさ。それでも一人娘を心配するのは父親として当然のことだろ?」

不満たらたらに愚痴をこぼす 綾乃を、40代半ばの男が宥めていた……横浜、山手町にある某神社で綾乃は解けかかった封印の補強を命じられた。

奇しくも先日、和麻が除霊を 行なった場所の眼と鼻の先だったが、綾乃がそれを知るはずもない。現地に赴いてみれば、封印の劣化は予想以上に進行していた。綾乃は即座に再封印を断念 し、封じられたものを滅ぼすことに決めた。

躊躇うことなく封印の壺に張 られていた呪符を引き剥がす。

曰く……その方が手っ取り早 い、と…自分の実力に絶対の自信を持っていなければ言えない台詞であるが、同行する二人の男達も、それが分不相応な自信ではないと知っていた。

無論、重悟も知ってはいた が、それでも心配せずにはいられないのが親心と言うものだ。

重悟は親馬鹿丸出しでそう考 え、常に二人以上の術者に綾乃を護衛させていた。

「公私混同はするなって、 いっつも言っているくせにさ。自分勝手だと思わない、雅人叔父様?」

まだ不満を抑えきれずに、綾 乃は男……大神家当主の弟、雅人に愚痴る。

「宗主とて人間なんだ。そう 杓子定規に考えることも無いだろうよ」

雅人は骨太な笑みを浮かべて 笑い飛ばした。分家の人間にしては随分遠慮のない口の聞き方をしている。しかし綾乃の方もそれを咎める様子はない。

この大神雅人なる人物は、兄 を遥かに凌ぐ力を持ちながら、当主の座を巡って争うことを嫌い、チベットの奥地まで修業の旅に出たという神凪の中でも変わり者だった。

自分の力を誇示したがる神凪 において、自身の実力と役割をきっちりと理解しているからこそ、重悟の信頼も厚く、日本に戻ってきてからは『綾乃のお守り』を以って任じている。

綾乃もまた、この豪放磊落を 絵に描いたような親戚を気に入っている。周り中からお姫様扱いされていた綾乃にとって、雅人の媚びる事のない態度はとても新鮮で、心地よく感じた。

今では『雅人叔父様』『お 嬢』と気安く呼び合い、家族同然の間柄になっている。

「若い術者に勉強させてやっ ているとでも考えるんだな。なあ武志……武志?」

「は、はいっ!?」

綾乃に見惚れていた若い術 者…大神武志は、叔父に繰り返し呼びかけられ、ようやく我に返った。

その様子に、雅人は軽く溜め 息をつく。

「聞いてなかったな……お嬢 に見惚れるのはいいが、気を抜くなよ。封印はもういつ解けるか解からないんだぞ」

「き、聞いていましたとも!  叔父上の仰る通りです! 綾乃様の戦いぶりを見せて頂ければ、これに勝る喜びはありません!」

綾乃の前で恥を書きたくない 一心で、武志は必要以上に力を入れて叫んだ。

彼女を見詰めるその眼には、 尊敬を通り越して崇拝の色さえ浮かんでいるが……これは特に異常な反応ではなかった武志と同世代の術者にとって、綾乃は女神にも等しい存在だった。

「そーゆーもん?」

「そうです!」

綾乃に話しかけられた喜び を、武志は全身で表した。綾乃はこういう感情を向けられる事を好まない……自分がこのような世界でさえも『普通』とは隔絶した人間であることを思い知らさ れ、いたたまれなくなるのだ。

しかし、そうした思いを理解 しろといっても無理であろう。

武志は純粋に、自分よりも遥 かに強大で美しい存在に敬意を表しているだけなのだ。

「ま、いいけどね……そろそ ろかな」

妖気の高まりを察知し、綾乃 はその場で半回転して本殿に相対し、プリーツスカートの裾がふわりと広がる。

これから立ち回りを演じると いうのに、綾乃はなぜか高校の制服を着ている。

高校から直行したからではな い…真面目に高校生をやっていれば、最も多く着る服は当然制服になる。

そこで重悟は制服を特注し、 能う限りの呪的防御をかけたのだ。

素材は気を通しやすい最高級 の絹。それも糸をつむぐ時点から気を込め続けたという、途轍もなく高価な代物を使っている。

金と手間隙を惜しみなくつぎ 込んだ結果、芸術品と言うべき高校の制服ができあがった。

しかし費用もそれに相応しい もので、これ一着で車が買えるどころではなく、はっきり言って豪邸が建つ。ここまでする時点で、重悟の親バカ振りが誰の眼にも窺えるが、綾乃はいたくこの 制服を気に入り……性能云々以前に父のプレゼントだからという理由のためだろう……常にこの服で戦い望んでいる。恐らくは世界で最も高価であろう戦闘服に 身を包み、綾乃は崩壊寸前の封印を見据えた。

細く長い呼吸を繰り返し、体 内に宿る力を活性化させる。清冽な拍手の音が空間を振るわせる。合わせた掌を引き離すと、両掌の間を炎の線が繋ぐ……綾乃は炎の線を右手で掴み、それを引 き抜くように横薙ぎに振るった。

一メートルほど伸びた炎の線 は、瞬時に物質化し緋色の剣を形作る。

この剣こそが神凪の至宝:炎 雷覇……神凪の始祖が炎の精霊王から賜ったと伝えられる降魔の剣…代々神凪の宗主に与えられる神剣……重悟より受け継いだ剣を、綾乃はその手に握る。

手に持った炎雷覇を振る…描 かれる軌跡は金色の粒子を散らせる……見る者が魅了されるような輝きを放ち、剣を振るう彼女の動きは何万、何十万回と繰り返し修練を続けたものだけに許さ れる、完成された動きだった。

その直後、遂に臨界を迎えた 壺が鈍い音を立てて砕け散る…破片が地面に落ち始めるが、それが落下し終えるよりも早く、壺の中から白いものが綾乃目掛けて射ち出された。

綾乃は真っ向から炎雷覇を振 り下ろし、それを迎撃する。熱したフライパンに水をかけたような音をたてて、蒸発する白い物質。

「粘液……?」

綾乃はその物質を見て小さく 呟く。

前方に眼をやると、本道の暗 闇に、いくつかの光点が灯っている…それはゆっくりと前進し、己の姿を白日の下にさらけ出す。

「うわ……」

綾乃はそれを見て心底嫌そう な声をもらす。

それは巨大な蜘蛛の化け物… 数えるのも嫌になる複数の眼、全身に汚らわしい剛毛を生やし、8本以上の足を有する。さらにはカサカサと長い足を動かしている……見るものに生理的嫌悪を 引き起こさせる相手。

「土蜘蛛か……手を貸そう か?」

「けっこお」

綾乃は即座に雅人の助けを断 る…気持ち悪いのは確かだが、泣き言を言える立場ではない……何よりも父に失望されるのが怖かった。それに比べれば、クモやゴキブリと戦うことなど何の程 もない。

(おいで………)

眼を閉じ……彼女は炎の精霊 に呼び掛ける…肉声は必要ない、綾乃の意思に応え精霊は自ら進んで集い、炎雷覇に飛び込んでいく……刃の纏う炎が、一層輝きを増す。

意思の届く限りの精霊に綾乃 は助力を請う。他の術者のように命令することはしない……それがどれほど傲慢なことか、父に何度も教えられている。

 

―――――我々は対等なの だ……と、重悟は常にそう語る。

 

精霊は世界の秩序を守る存 在。神凪一族は精霊王との契約により、精霊の協力者の任を負ったのだと。

綾乃は知っている……自分の 力が借り物に過ぎないのだと。

彼らは皆力を借りているの だ……強大なその力を…この世界の秩序を護るために。

世界の『歪み』である魔性を 封じ……滅するために…一時的に与えられたものに過ぎない。

故に命令はしない…そんなこ とをする必要は無いと解かっているから……正しい願いに、精霊は必ず応えると知っているから。

世界に対する敬意を忘れない ように、強大な力を得たと錯覚して傲慢にならないように、綾乃はいつもこう呼びかける。

(お願い、力を貸して……)

 

 

「す……凄い………」

武志は呆然と呟いた。膨大な 精霊が綾乃の下に集まっていく…自分が支配していたはずの精霊まで、根こそぎ持っていかれた。

初めて眼の当たりにする宗家 の力は、まさに桁違いと言うしかないものだった。

「ああ、凄いだろ?」

我が事のように誇らしげに、 雅人は笑った。

「さっきはああ言ったが、勉 強になんてなるわきゃないんだよな。俺達がどう頑張ったって、あんなことできっこないんだからよ」

叔父に返事をすることも忘 れ、武志はひたすら綾乃だけを見ていた。

綾乃は炎雷覇を構えたまま、 土蜘蛛と対峙を続けていた。眼の前の敵に集中している。その集中力は感服するほどだ。

 

 

だが今回はそれが裏目に出る こととなる……彼女は、いや他の二人も気が付かなかった。

すぐ傍に気配を消して潜む敵 を……強大な妖気を隠す妖魔を。その鋭い視線で、三人をじっと観察しているその存在を。

鋭い牙をむけ、強大な力の持 ち主をその腹に収めることができる喜びを噛み締めていた。

『成る程……なかなかの上等な餌のようだな………あの女を喰らえば、我は更なる力を身につけることがで きる。強大な霊力を持つあの髪の長い女を……』

妖魔にとって霊力を持つ人間 は、天敵であると同時に最高級の餌でもある……妖魔にもピンからキリまでいる……そして、強大な力を持つ妖魔にとって、霊力を有する人間は、自身の力をさ らに増すための餌であり、それが強ければ強いほどいい。

「ふふふ……もう少し我慢な さい……あの小娘の力が達した刻が…最高の味を齎してくれるわよ」

女は不適に微笑み……影の頬を撫でる………

今すぐにでも飛び出したい衝 動に駆られるが、そこは何とか抑え込む。

勿論、この場で放しても構わ ない……あの程度なら、苦もなく取り込むことも容易いが、あの神剣だけは厄介な代物だ。

あの土蜘蛛を葬った時こそ、 油断が生じる……そこを襲えば、あっさりといけるだろう。

恐怖に歪んだ顔を見ながら、 絶望と恐怖といった負の感情に支配された身体を…魂を喰らう………影にとって、これほど最高の餌はない…そして、その時に発せられる阿鼻叫喚の叫びが、女 にとって快楽を齎すものなのだ………

「さあ、早くその土蜘蛛を滅 しなさい……絶望の声を聞かせて………」

悦然とした笑みを浮かべ、女 は紅潮した身体の疼きを抑えるように身体を抱き締めた。

 

 

その存在に気付かないまま、 綾乃は炎雷覇を構え、対峙を続ける。

(どうしようかな…あまり近 付きたくないし………)

炎雷覇は呪法具である以前に 剣である。やはり剣として使ったときにその威力を最も発揮する……そのためには直接斬撃を加えなければならない。その上で内部に炎を伝わらせ、焼き尽く す……これが、炎雷覇と呼ばれる神剣の使い方……綾乃はそう心得ていたが、それは間違いだ。

しかし、そんな事を露も知ら ない綾乃は、内心に嫌な想像を張り巡らせる。

(斬りつけた瞬間、切り口か ら得体の知れない粘液なんかが飛び出して……爆裂させた瞬間にその破片が身体に降り掛かったり…ううん、もし雌だったら、腹から何百匹の子蜘蛛がわらわら と……どれもいやぁぁぁぁぁ!!)

敵を前にして、これ程までに 具体的な想像できるのはある意味で凄いが……それは戦いに殉じる者にとっては愚かしい行為でしかない。

そんな綾乃の煩悶を感じ取っ たのか、土蜘蛛は脚を器用に動かし、反転する。

「逃げる気!?」

そうはさせまいとする綾乃に 向かって土蜘蛛は尻の先から白い糸を吐き出すも、綾乃は炎雷覇を振り被り、金色の炎が糸を焼く……だが、際限なく吐き出される糸に、炎は本体に届かな い……綾乃は足を止め、意識を集中させた。

(ちまちまやっても埒があか ない、一撃で決める!)

上段に振り被った炎雷覇を、 綾乃は渾身の一撃で振り下ろした。

金色の炎……最高位の浄化の 炎が、土蜘蛛から吐き出された大量の糸をものともせず焼き払い、土蜘蛛本体へと迫る。

炎が着弾し、爆音が轟き、土 蜘蛛が炎に包まれる。

「やった……よね…?」

炎が消えていく中、自信なげ に呟く綾乃の目の前に、白い繭のようなものが映った。

思わず眼を瞠る綾乃の前で、 それはピキピキとひび割れ……薄いガラスが割れるような音をたてて繭が割れ、その中から傷一つない土蜘蛛が現れる。

恐らく己の作り出す糸に霊気 を遮断させる性質があるのだろう。それで自分の身体を覆い隠し、浄化の力の浸透を防いだのだ。

「……やって、くれるじゃな いの……」

綾乃は抑揚な口調で言った。 一見、平静のように見えるが、よく見るとこめかみが引きつっている。今の一撃は決して手加減したわけではない。それを完全に防がれて、綾乃のプライドは痛 く傷付いていた。

「たかが虫ケラの分際で……!!」

綾乃の怒りに応え、さらに膨 大な炎の精霊が集結する。炎として具象化してはいないものの、境内の内部は火山の火口にも匹敵するほどの精霊に埋め尽くされていた。

「さあ……覚悟はいい?」

怒ってはいるが、綾乃は我を 忘れてはいない…冷静に怒りをコントロールし、力へと転化する。強く、強く精霊に呼び掛ける…今度は全方位ではない。細く絞った意志を、特定の場所の特定 の精霊に向けて解き放つ。

綾乃は炎雷覇を身体の正面で 垂直にかざし、身長に狙いを定めた。深く息を吸い、呼吸と共に鋭い気合を放つ。

「はっ!!」

直後、土蜘蛛の体内で炎が弾 けた。膨らんだ腹が裂け、小さな火柱が立つ。

その小さな炎を目印に、境内 中の炎の精霊が殺到する。炎は爆発的に増大し、土蜘蛛を今度こそ灰も残さず焼き尽くす。

後には何も残らなかった。土 蜘蛛の身体の破片はおろか、撒き散らしていた妖気も跡形もなく浄化されている。今までにここに妖魔がいたという痕跡さえ残されていなく、神社らしい清浄な 気が境内に満ちている……だが、勝利の余韻か…綾乃は周囲を警戒するということを最低限の配慮をしなかった……如何なる場合においても、勝利を確信した時 こそが一番隙が生まれる……それで命を落とした者も過去の事例を見ても少なくない……もっとも、攻撃のみに特化した能力しか持たぬ神凪ではそんな配慮も欠 けているのかもしれないが………綾乃達を覆うように拡がる靄のような黒い霧………その結界を構築するのは、今しがたの戦いを見詰めていた女だ。

女は綾乃に対する見方を変え ていた……最上から極上の餌へと………他者の、それも生命活動に影響を与える精霊を己の支配下に置く意志……実質的に、内側からの干渉で物体を破壊するの は、不可能に近い……この世のありとあらゆる現象に関与する精霊……勿論、生命活動にも……体内に水分を有する生物は、水の精霊の影響を受けずにはいられ ないし、熱量を持つものは皆、体内に炎の精霊を有している。

例え妖魔でも物質化してしま えば、この法則からは逃れられない。

しかし一般的に、他者の体内 に在る精霊を制御するのは不可能であるといわれる。

生物の生存本能は無意識に近 くなるほど強く、生命の源とも言うべきものを他者に操作さ

せることを許さない。並みの 天才ではこうした精霊を操ることは叶わない。だが、いつの世も理論限界と言うものを鼻で笑い飛ばす人間がいる……しかし、これは相手と己の力量に絶対的な 差がなければ不可能だが、彼女は得意げな笑みを浮かべ、振り返る。

「さすがはお嬢だな。大した もんだ」

「流石です! 綾乃様!!」

二人の護衛はその強大なまで の力をただ見て驚くしかない。自分達では絶対にこんなことはできない。

「まあね♪」

褒められたことが嬉しいの か、綾乃はさらに得意げな笑みをする。

「さあ、帰りましょうか」

もはやここに用はない。任務 も達成したし、あとは帰って宗主である父に報告するだけ。

「ああそうだな。しかし、こ れで次代の神凪も安心だな」

「そうです。綾乃様が宗主に なれば、神凪はさらに発展します!!」

二人は彼女に大きな期待をし ていた。まだ若干16歳でありながら、神凪では三番目の実力者…さらには炎雷覇まで持っている…彼女に勝てるものなど、彼らの知る限り、重悟か厳馬ぐらい しかいないだろう。

だが彼らは知らない……綾乃 の力など、足元にも及ばない者達が存在することを……

井の中の蛙……神凪はまさに それだった………自分達の世界の尺度でしか物事を判断しない………この世には、綾乃をも越える存在など、探せばごまんといる………それこそ、身近に も………

「うん。まあ、あたしも頑張 るわ。取り敢えず帰りましょう。お父様に報告しないといけな……」

だが綾乃の台詞は途中で途切 れた。

綾乃はここにきて、ようやく 自分達を覆うように拡がっていた妖気に気付いたのだ……境内全体を包むように強大な妖気が覆い、完全にここ一帯を結界で封鎖している。

それは黒い風……妖気が恐ろ しいまでに含まれた風。

触れるものを凍りつかせ、切 り裂く魔性の風。それが三人の術者を取り囲む。

「な、なに!?」

綾乃もいきなりのことで気が 動転していた。

たとえ力はあろうとも、こう いったイレギュラーな状況には、圧倒的に経験値が足りない。

何時如何なる時も冷静でなけ ればならない戦士としては失格だ。

「叔父上。これは一体!?」

武志も一体何が起こっている のかを正確に判断できない。

唯一、この場で落ち着いてい るのは雅人ぐらいだ……伊達に分家での有数の実力者ではない…こういった突然の事態への対処に関しても冷静な判断がくだせる……だからこそ、重悟に護衛を 任されているのだ……綾乃の暴走と混乱に対処できる者として………ここからも、綾乃が重悟に信用されていないことが窺えそうだが……

「二人とも落ち着け! どう やら風の結界に閉じ込められたようだ」

その言葉に綾乃はハッとな る。

風の結界……そう聞かされ、 昨日に起こった神凪の術者が惨殺された事件を思い出す……その犯人が今、自分達を襲っているのだ。

「じゃあ、これって和麻さん がやってるの!?」

綾乃は父から聞かされた容疑 者の名前を出す……だがそれは間違っていた。

黒い風の空間から何処ともな く木霊する声は、悪意に満ち溢れた妖気だ………

『クックク……悦ぶがいい、人間どもよ………お前達は、我が力の一部となってもらう……我にその身を捧 げよ……』

「なんですって!」

綾乃は驚愕の声を上げる。

相手の姿は掴めないが、この 気配は紛れもなく妖魔のものだ……先程の土蜘蛛とは比べものにならない程の妖気と殺気が伝わってくる。

上級妖魔といっても差し支え ない…地獄、また魔界にいるのが相応しいと思うほどの強大な妖魔の波動……それが今、眼前に突如として現われ、さらには自分達を喰らうと言う……三人は、 冷たい汗が皮膚をつたうのを感じた。

『恨 むなら、我と契約し…貴様らを売ったあの男を恨むがいい……』

揶揄するような言葉に、雅人 が反応する。

「あの男だと! 貴様、誰と そのような契約をした!!」

雅人は風が渦巻く上空に向か い叫ぶ。彼らにはこの事件の首謀者を知り、そしてその者を討たなければならない。

『よかろう……聞くがいい……我が契約せし者、その者の名は、八神和麻。そ奴が貴様らを我に売ったの だ……』

その名を聞いたとき、全員が やはりと思った。タイミング的にもおかしかったし、たった四年で強力な風の力を身につけてきた。

八神和麻の使う風の力は精霊 魔術ではなく、この妖魔に借りたものなのだと、誰もが思った。綾乃はやっとこの事件の首謀者が誰であるか知った。

やはり父の言う通り、あの男 が今回の事件を起こした。神凪に復讐するために、自分達を皆殺しにするために。だが首謀者を知ったからにはここから逃げ出し、そのことを報告しなければな らない。

先入観のみで物事を理解した 三人は、決定的なミスを犯した………契約したはずの和麻がこの瞬間には、分家の二人と争っていることを……報告したとて、重悟ならすぐその不自然さに気付 くだろうが……そして、彼らは踊らされる……

『(クックク…人間とやらはなんとも狡猾で救いようのない種族よ……いや、低脳なものだな……こうも あっさり引っ掛かるとは………あの荒風の御方の仰った通りだ)』

昨晩は、黒炎を操る女に邪魔 されて餌にありつけなかった……そのために、妖魔の腹は格段に餌を欲していた………狙うは、メインディッシュの綾乃…残りの二人はデザート感覚で喰らおう と決め、その眼を向ける。

『さ あ、その身を我に差し出すがいい……』

綾乃は噛み付かんばかりの勢 いで怒鳴る。

「ふざけんじゃないわよ!  誰がアンタの餌になんかなるもんか!! 叔父様!」

「ああ。武志! 炎を放つ ぞ、タイミングを合わせろ!!」

「は、はい!!」

三人はタイミングを合わせ炎 を放とうとする。綾乃は炎雷覇を構え、雅人と武志は持てる力の全てを引き出す…この三人がかりの攻撃なら、いかに強大な妖魔でもダメージを耐えられるだろ う……無論それだけで倒せるとは思わない。だがこのことを本家に報告しなければならない。それを成すためには、ここをなんとしても脱出する必要がある…… 逃げることも勇気だ……三人だけの力では、この妖魔の相手にはならないと悟ったからだ。

この場は逃げ、神凪の全力を もって契約者の和麻とこの妖魔を討てばいい……

「いっくわよ!! いっけ えぇぇぇぇ!!!」

綾乃は炎雷覇を大きく振り被 る。刃から、凄まじいまでの金色の炎が放たれる。

「うおぉぉぉぉぉ!!!」

「はあぁぁぁぁぁ!!!」

雅人も武志も持てる力の全て を使い、妖魔に放つ…三つの炎が一つになり、さらに強大な力を得る。三人はその融合した炎を結界に向かって放った……相手の本体が掴めない以上、この結界 を破るのが急務だ……三人とも、これで結界は消滅する…そう思った。

だが……炎が黒い風の壁に着 弾した瞬間…炎を結界内に突如として発生した黒い風刃が切り裂く………荒れ狂ったように何度も切り裂かれ、炎が霧散する………

その光景に、三人は言葉を失 い、呆然と立ち尽くす……

『つまらん……この程度か………もはや足掻くのを見るのも価値がない……我が餌として大人しくするがい い……』

妖魔の言葉にも、綾乃達は反 応できない。

「そ、そんな……」

「こ、こんなことって……」

綾乃と武志は驚きのあまり呆 然と呟く。

雅人も、半ば呆然となり、思 考がうまく働かない……たとえ、相手にダメージを与えられなくとも、結界は消滅すると確信していたからだ…だが現実は、次期宗主である綾乃を含めた三人の 全力の炎を、相手はいとも簡単に消滅させた。

最強を自負する神凪にとっ て、この事実は受け入れがたいものであった……しかし、そんな綾乃達を嘲笑うように妖魔は呟く。

『も はや抵抗は無意味……さあ、娘……お前から喰らってくれる………』

最初の標的に決められた綾乃 は、一瞬ビクッと反応するも、持ち前の気丈さで睨み付ける。

「調子にのらないでよ! 炎 雷覇を突き立てれば、あんたなんか……!」

炎は通じなくとも、綾乃には まだ炎雷覇という神剣がある……直接刃を相手の身体に突き付ければ、まだ勝機はある。

『ハハハ! なんとも滑稽なことを……我の姿さえ見えないのに、どうやってそれを突き刺すつもりだ?』

「くっ!」

高らかに笑い上げるも、綾乃 は言い返せずに歯噛みする。

相手の言う通り、綾乃達には 相手の姿が確認できない……この結果の闇に紛れている以上、相手の姿を見分けなければ、話にもならない。

「コソコソ隠れるなんて卑怯 じゃない! 正々堂々と勝負しなさいよ!!」

勝負に卑怯もくそもない…… 勝った者が正義なのだから………だが、その挑発にのったように声は答える。

『……… よかろう。喰われる相手の姿ぐらいは、慈悲として見せてやろう』

その言葉に呆気に取られる一 同の前に、結果以内を渦巻いていた風が一点に収束し始めた……爆発的な妖気が、ピリピリと伝わってくる。

「ぐぅ……な、なんて妖気 だ!」

流石の雅人でさえ、この醜悪 にして強大な妖気に当てられ身体を震わせている。

「う、うわあぁ……」

武志も、今まで感じたことも ない強大な妖気に恐怖し、足元が震えている……少しでも気を抜けば、その場に座り込んでしまいそうだ。

綾乃は収束する妖気の方向を 睨む。

やがて、風が晴れ……その中 から、影が姿を現わす………

「な、なんなのよ……」

姿を見せたのは、巨大な黒い 狼のような妖魔………闇の衣のような外観を誇り、それが突き立つ………見るもの全てを恐怖に陥れるような獰猛な真紅の鋭い眼……唸るその声と口元に輝く銀 の牙………尾を靡かせる獣形の妖魔だった。

『さ あ……望みどおり、我が姿を見せた……やってみるがいい…我は逃げもせん………』

尾を振り、その場に佇む。

あからさまな挑発だった。姿 を現すことなどしなくても簡単にこの場の全員を殺すことなど容易いはずなのに、敢えて姿を晒したのは、こちらを見下している……それは綾乃の自尊心を大き く傷付けた。

「こんのぉ! ふざけるん じゃないわよ!! 後悔させてやるわ!!」

綾乃は炎を炎雷覇に収束し、 眼前の妖魔目掛けて斬り掛かる……

「い、いかん! お嬢、やめ ろ!!」

圧倒的な実力差を見せ付けら れた雅人は瞬時に叫んだ……妖魔が姿を見せたのは驕りでないことが理解できたからだ。

しかし、そんな雅人の叫びも 虚しく……綾乃は突進していく。

「は あぁぁぁぁぁぁ!!!!」

吼えながら、綾乃は全力で炎 雷覇を振り下ろす。

これが妖魔の身体に触れれば 勝てる……そう確信していた綾乃だが、突き刺さった瞬間……刃を覆っていた炎が急激に衰えていく。

「そ、そんな……!」

事態が理解できず、綾乃は戸 惑う……妖魔は、炎雷覇に宿った炎の霊力を吸収しているのだ……魔を滅する神剣といえど、その能力をフルに発揮できない綾乃の霊力では、相手に逆に力を与 えるだけでしかない。

『ふ む……なかなかのものだな…満足したか………?』

「!? きゃ あぁぁぁぁ!!!!」

刹那、妖魔から風刃が綾乃に 向かい放たれる。その凄まじい風刃が綾乃を吹き飛ばす。

「お嬢!!」

雅人は咄嗟に綾乃をその身体 で受け止める。

「大丈夫か!?」

「う、うん…けど……」

その瞳には恐怖が宿ってい た…全力の一撃をあっさりと受け止められた……これまで、自分よりも格下の相手としか戦ったことのない綾乃は、完全に自信を喪失し、初めて憶える恐怖に、 身体中に冷たい悪寒を感じていた…死という恐怖に。

もはや、戦意喪失に近い綾乃 を見て、雅人は考えを巡らせる……この状況では全滅してしまう。何とかせめて二人を逃がさなければ……だがその方法が思いつかない。

綾乃でさえ敵わない相手に、 自分が敵うはずもない……だが、一つだけ…方法はあると雅人は思い浮かべた。

(命を捨て、特攻するしかな いか。結界をどうにかできれば二人だけでも逃げられる)

命を捨て、この結界を破壊す る…自分の命を糧に大規模召喚を行なえば、いくら強力な結界でも破れるはず………死を決意した雅人は綾乃を武志の傍に降ろす。

「お、叔父様?」

綾乃は、その雅人の顔を見た 瞬間…瞬時に理解した………伊達に長く一緒にいたわけではない。

「お嬢、武志。俺がこの結界 を何とかする。その間にお前達は何とか逃げろ」

「そ、そんな叔父様!!」

「だめです、そんなこと!  僕もお供します!! 綾乃様を守るためならこの命……」

「だめだ!!」

二人に向かい、雅人はきっぱ りと言い放つ。

「若いお前達が死んでどうす る? ここは俺に任せろ。一瞬だけでもチャンスを作る。だから………」

綾乃は次期宗主…武志もこれ からの神凪で成長する存在だ………ならば、死ぬのは自分だけでいい………その意図を察した綾乃はなおも叫んだ。

「叔父様! だめです!!  あたしも戦います!! まだ負けたわけじゃ!!」

「無理だ……今のお嬢じゃ絶 対に勝てない。宗主や厳馬殿の力を借りねば……だからこそ、お嬢には生きてもらわねば………」

雅人の決意を綾乃は痛いほど 理解できた……自分がなんの役にも立たないことを……だが、だからといって叔父を見殺しにして逃げるなど到底できない。

「あたしは次期宗主です!  だから、こんなところで逃げるわけにはいかない!!」

未だ恐怖を宿しながらも、懸 命に立ち上がる綾乃……その眼には、雅人と同じ決意が込められている……炎雷覇を握り締め、妖魔に向き直る。

それを見て、武志も恐怖を振 り払い、構える。

「叔父上、僕も逃げません!  護衛が逃げるなど……!!」

自らを奮い立たせる二人に、 雅人は呆れと感心を浮かべる……こんな状況では不謹慎かもしれないが、子の成長を喜ぶ親のような感覚が芽生え、苦笑を浮かべる。

『麗しいものだな……別れはすんだか……貴様らの相手をするのももはやつまらん……そろそろ、喰らわせ てもらおう……』

相手から吹き出る妖気……そ れに圧倒されつつも、綾乃はキッと睨む。

「ふざけないでよ! アンタ はここで絶対に滅ぼして、そして必ず和麻の奴も討ってやる!!」

臆することなく、叫ぶ綾乃は 炎雷覇に炎を滾らせる……その様子に、やや感嘆した様子を見せる。

『(ほ う……この僅かな間にこれ程の力を引き出すとは…人間とは面妖なものよ……)』

幾分か力は増したようだが、 それではまだ及ばない…そして、その成長は綾乃という餌をさらに極上にした。

「来なさい!!」

『愚かな…未だに力量の差も よめんとは………』

威勢よく叫んだ瞬間……妖魔 が憐れむように呟き……低く構えた瞬間……大地を蹴り、綾乃に襲い掛かろうと飛び掛かった。

(は、早い!!)

まるで光の速さと錯覚するよ うな動き…眼で追うだけでも精一杯だというのに……綾乃はまったくそれに反応できなかった。

瞬間移動でもしたのではない かと思われるくらいの高速の動き……その口を開け、鋭い牙が綾乃に迫る。

「お嬢!!」

「綾乃様!!」

その動きに反応できない二人 には、叫ぶしかできない……綾乃は死を覚悟した。

 

 

 

炎・滅・斬!!!

 

 

 

刹那……結界に亀裂が走り、 鋭い斬撃にも似た縦一直線の黒い衝撃波が外から結界を斬り裂き、結界が崩壊する。

綾乃と妖魔のちょうど中間を 綺麗に通った衝撃波が霧散し、その衝撃で綾乃達は弾き飛ばされた。

「きゃぁぁぁ!!」

「ぐぅぅ!!」

「うあぁぁぁ!!」

弾かれた三人はそのまま身体 を打ち付ける………

「な、なんなのよ……」

突然の事態に、訳が解からず に綾乃が顔を上げる……雅人と武志も顔を上げ、状況を確認しようと辺りを見回した瞬間……妖魔と対峙するように、黒い人影が佇んでいた。

やや離れた場所で、結界を打 ち破った百合は、大地に突き刺した禍火神を抜く。

黒炎の力を刃に凝縮し、破壊 力を一点に集中させて結界を破ったのだ。

刀を振り、百合は真紅と漆黒 の瞳を妖魔へと向ける。

『き、 貴様は……』

妖魔ははじめて取り乱したよ うに上擦った声を上げた。

それに対し、百合は不適に笑 みを浮かべる。

「また会ったわね……風の妖 魔…………」

 

 

刃に黒い炎が迸り、百合は妖 魔と向かい合った………

 


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