(なによなによ……鼻の下伸ばしちゃって!)


目尻を吊り上げ、怒りのオーラを周囲に発散しながら立ち尽くす綾乃。

その視線は今しがた和麻が去っていった方角に向けられている。

そんな綾乃を見ながら、彼女の後ろにいた由香里と七瀬は、なんとはなしにお互い顔を見合わせた。

……まあ、ここまで解りやすい反応をしていれば誰だってそうと気づく。

2人は申し合わせたように、綾乃を見て頷いた。


「なるほど」


七瀬が重々しく肯く。


「ナンパへの対応がキツくなるわけだ」


「そうねー、あーゆう人好きになっちゃったら大変よねー」


「でもちょっと意外ね。あーゆう軽そうなのは綾乃の好みじゃないと思ってたけど」


「―――――あんたたち」


ゆらりと綾乃が振り向いた。

静かに、不吉なまで静かな口調で問いかける。


「なんの話してるの?」


「なにって―――」


至極当然のように由香里は答えた。

あの光景を見ていれば誰もが思うであろう台詞を。


「綾乃ちゃん、さっきの人が好きなんでしょ?まだ片思いっぽいけど?」


「ななななに言ってるにょよっ!!?」


「噛んでる噛んでる」


由香里の一言で、これ以上ないほど狼狽する綾乃の顔を、七瀬は面白そうに眺めやった。

顔中を紅潮させながら、綾乃は叫ぶ。


「ッ……違うっ!断じて違う!誰があんなゲス野郎の事なんかっ!!」


「じゃ、なんで怒ってるの?」


「そ…それは…」


七瀬の冷静な突っ込みに、綾乃は勢いを失って口ごもる。

確かに七瀬の言うとおり、和麻のことを何とも思っていないのであれば、綾乃が怒る理由など無い。

誰と何処でHしようが関係ないはずなのだ。

なぜ自分はこんなに怒っているのか?

この怒りはどこから来るものなのか?

綾乃は必死に考えるが、その答えは一向に出てこなかった。

暫く悩んだ末に、思いついた言葉を感情の赴くままに口走る。


「そっそうよ!和麻ごときがあんな美人とHできるって事が気に入らないのよ!分不相応ってもんだわ!」


拳を握り締めて力説する綾乃を、2人は白けた目つきで見つめた。


「ふーん」


「へーそーなんだー」


まるっきり信じていない様子で気の無い返事を返してくる友人2人に、

綾乃は頬を膨らませる。


「な、なによぉ…ホ、ホントなんだから、信じなさいよ」


拗ねたように言う綾乃を見ながら、二人はひそひそと言葉を交わす。


(どう思う?)


(ごまかしてるって感じじゃないけど……まさか自分でも気づいてないとか?)


(あれで?それは人として問題があるというか………でも、まあ綾乃ちゃんだしね)


(だね。……けど、あれってそんないい男だった?顔は平均より上だとは思うけど…)


「ちょっと!……目の前で内緒話はやめてくれない!?」


綾乃に怒鳴られ、2人はさっと居住まいを正す。

息の合ったタイミングでピシッと背筋を伸ばす2人に、綾乃は憮然とした表情で唸り声を上げた。


「本当にあいつとは何でもないのよ。……だいたい七瀬。あんたに男の顔のことでとやかく言われたくないわよ?」


綾乃の最後の一言に、七瀬の表情が凍りついた。

逆に由香里のほう愉快げな笑いを口元に貼り付けている。


「な……なにを」


「ふん、テニス部の子から聞いたわよ?……写真部の冴えない男子と付き合ってるそうじゃない」


「なっ!……馬鹿言うな!アイツとはそういう仲じゃ…」


「へぇ〜、どういう仲だってー?」


獲物を弄ぶチェシャ猫のような笑みを浮かべて聞いてくる由香里。

どうやら興味の対象が、綾乃から七瀬に移ったらしい。

七瀬にジリジリとにじり寄る由香里を見て、綾乃は気づかれないよう安堵の息をついた。


(ほんと……私どうしたんだろ)


和麻が絡むとどうにも冷静な思考が出来なくなってしまう。

なぜここまで心を掻き乱されるのか?


(………ようするに、それだけ和麻のことが気に食わないって事ね!)


何とも彼女らしい、見当違いの憶測を立てて、綾乃は力強く頷いた。


「あっ!綾乃!!突っ立ってないで助けてよっ!」


ふと、横から声がかかり、そちらを向くと、由香里に纏わりつかれて辟易している七瀬の姿が見えた。




































蒼と黒の饗宴

第2部 第2話




































横浜市、某埠頭。


大きな倉庫ばかりが立ち並ぶベイエリアには、いまや至るところにポリスラインが引かれ、

その周辺では制服警官や背広を着た刑事が歩き回っていた。

ポリスラインの外には近くの工場等から物見遊山にやってきた一般人が、ぱらぱらと散見される。

警視庁特殊資料整理室の一員、倉橋和泉は野次馬の間をすり抜けるように歩いていき、

ポリスラインの周辺を固めている制服警官に身分証を見せた。


「………特殊資料整理室?。」


身分証を見せられた警官は胡散臭げに和泉と身分証を見比べた。


「少し待ってもらえますか?」


そういって警官は少し離れたところにいた背広姿の刑事に何事か話しかけ、暫くすると、その刑事を連れて戻ってきた。


「あんたが資料室の……本庁から連絡は受けとるよ。現場はこっちだ」


和泉が自身の身分を明かすと、年配の刑事は心得たように頷いた。

顎をしゃくって埠頭に係留された貨物船を示す。


「本署からは、あんたらの指示に従うようにと言われてるが……」


「では、こちらの調査が済むまで県警の方々は船外で待機を……ああ勿論、周辺の封鎖は継続してください。

 何かあれば追って指示を送ります。」


「……………」


その刑事は不審げに、どこか値踏みするような視線を和泉に投げかけていたが、暫くすると諦めたように溜息をついた。


「……解った」


「ご協力、感謝します」


和泉は軽く目礼して、貨物船の係留された埠頭に歩いていき、途中でふと足を止めた。


「熊谷!貴様モタモタしていないでさっさと来い!!」


「すっ、すみません…」


彼女の鋭い怒声に、おののくような男の声が応え、

暫くすると、ポリスライン周辺の警官たちを掻き分けるようにして長身の男が息を切らせて走ってきた。

熊谷、と呼ばれた男が息を切らせつつ追いついてきたところで、和泉は再び県警の刑事に向き直り、傍らに立つ熊谷の胸をドンと押した。


「私と、この熊谷で調査を行いますので、それが終わるまで船内には誰も立ち入らぬよう願います」


それだけ言って、和泉はすたすたと船内に入っていく。

彼女のあとを追いかけるように、熊谷が続いた。

その様子を、周りを封鎖していた県警の警官たちは胡散臭げに見ていた。


「……警部、何なんですかあの2人?特殊資料整理室なんて部署、初めて聞きますけど……」


「ああ、お前さんは配属されたばかりだから知らんだろうが……なるだけ関わり合いになりたくない類の連中だよ。

 あーそれから、船の周りにいる連中に、警視庁の2人組が出てくるまで船内に入るなと伝えておけ」


「はあ…了解しました」


どこか釈然としない様子で、その若い刑事は頷いた。







     ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆







警視庁特殊資料整理室という組織がある。

それは警視庁の地下の片隅に、人目をはばかるようにひっそりとその名を掲げている。

存在自体は別に秘匿されているわけではないので誰でも知っているが、その活動内容を知る者はほとんどいない。

『特殊資料』なるものが一体どういうものなのか、それこそ同じ警視庁の人間でさえ知らない者が殆どなのだ。

平たく言えばそんなものは存在しない。意味不明な部署は業務内容を隠すカモフラージュに過ぎない。

この部署は国内唯一の公営退魔組織なのだ。

陰陽寮の解体以来、国は妖魔に関する処理のほとんどを民間に委ねてきたが、その状況を打破するべく作られたのが特殊資料整理室なのだ。

新参の組織であるがゆえに裏の世界におけるに知名度は低いが、警察の組織力を活用でき、更には国家機関ならではの政治的な強みもあり、

情報収集、分析能力にかけては国内でも1.2を争う実力を有している。




倉橋和泉はそんな組織に所属する一人だった。




この組織に属する者としては大変珍しいことに、彼女は外部の退魔方から招かれた人材である。

特殊資料室に属する退魔師たちは何れも、れっきとした警察官であり、

殆どのものは採用試験の際に霊能に関する素養を見出されてリクルートされた者達だ。

創立から間もない、しかも全くのゼロから立ち上げた組織がまともに活動できているのは警察の、全国に広がるネットワークを駆使して、

霊能に関する適性を持った警官を片っ端からヘッドハンティングしていった結果である。

そのお陰で人員の数でいえば、資料室は相当な規模を誇っているといえる。

しかし、いくら人数が多くても、その全てが霊能の素人では話にならない。

警視庁は、彼らに退魔師としてのスキルを叩き込むために、古くから日本を霊的に守護してきた退魔の一族に助力を願った。

その退魔の一族とは、陰陽道において国内屈指と謳われる名門“橘”である。

現在の室長である橘霧香警視も、その名が示すとおり橘の出身であり、

和泉は彼女ともども警視庁が募った霊能に適正のある素人たちを退魔師として教練し、特殊資料室を国家の退魔機関として造り上げるべく、

橘から派遣されたのだ。






「あ、あの……和泉さん?……なんか周りからの視線が痛いんですけど……」


和泉の傍らで、相棒の熊谷由貴がオドオドした様子で話しかけてくる。

身長2メートル近い長身の大男なのだが、その身に纏う柔和な雰囲気が武骨な印象を和らげている。

彼は特殊資料室が創設された際に、霊能に関する素養を見込まれて、それまで派出所勤務だったのを本庁に引き抜かれてきた。

オカルトの世界に身を置くようになって日が浅く、そのため退魔師としての気構えが出来ているとは言いがたいものの、

“その”能力が非常に戦闘に適したものだったため、和泉と共に第一線の現場に送り込まれることが多い。

熊谷の落ち着かなげな態度に、和泉は鋭い視線を彼に送った。


「ふん、事情を知らん人間なら…当然の反応だろう。傍目には捜査を妨害してるようにしか見えんだろうからな。

 それより、熊谷!モタモタしてないでさっさと検証に取り掛からんか!」


「は、はい」


和泉に叱咤されて、ぺこぺこと何度も頭を下げつつ船内に入っていく相棒を複雑な目で見ながら、彼女もまた船内に足を踏み入れた。





横浜沖で巡回警備中の巡視船が不審な船舶を発見したのは、今から8時間ほど前。早朝の事だった。

無線、スピーカーによる呼びかけにも応答は無く、海上を漂流していたその貨物船はさながら流木のように海上を漂っていた。

船内は無人であり、至るところに大量の血痕が付着していた。

これだけなら特殊資料整理室が出張るような事件ではない筈なのだが、一体どのような経緯で資料室に仕事が回ってきたのか、

彼女の上司である橘霧香警視は意味深な笑みを浮かべるばかりで黙して語らなかった。


(まったく……室長も人使いが荒い)


溜息と共に、前髪を軽く掻き上げる。

資料室設立から早数年、未だに和泉はこの仕事に慣れなかった。

練達の退魔師として、彼女に課せられた仕事は資料室に属する警官達に退魔師としての基本的な技能や気構えなどを教える、

いわゆる教育係としての役割だった。

しかし生来、和泉は人にものを教えるのがあまり得意ではない。口より先に手が出てしまうのだ。

自分でもこの短気な性格はどうにかしたいと思っているのだが、今のところ改善の見通しは立っていない。

この、あまり人受けしない性格にもかかわらず、既に3年以上自分の相棒を嫌な顔一つせず―――――どころか積極的に務めている熊谷のことは、

和泉自身憎からず思っているのだが、傍目には罵声を浴びせるばかりなので、

その気持ちに気づいている人間は彼女の上司である霧香くらいしかいない。

閑話休題。


(ともあれ、今は仕事に集中だな…)


和泉は頭一つ振って余計な雑念を頭から払い、仕事用の怜悧な思考に切り替えた。

懐から一枚の札を取り出し、宙に向けて放る。

ボゥッ…と淡い光を発したかと思うと、札は透けるようにして消えた。

暫くすると、和泉は札が消えた地点を中心に己の知覚が広がっていくのを感じ取る。


「妖気の残滓は無い…か。」


一人梧散るように呟き、船内に入るためのタラップに足をかける。


(考えられるのは……この事件がオカルトとは無関係か、

 でなければ妖気を完全に消し去るほどの知能を持った妖魔、あるいは人間の術者…)


真剣な表情で考え込みながら、それでも足取りはしっかりと、タラップを上がっていく。

船内に入り、一歩踏み出したとき、足元でニチャリと粘つくような感覚を覚え、立ち止まった。

下を見れば、時間が経過し凝固した血糊がべったりと床に広がっている。


「どうしたんです?」


先に船内に乗り込んでいた熊谷が、突然立ち止まった和泉に怪訝そうに声をかけてくる。


「足元を見てみろ」


「足元……ん?なんだか、この辺りだけ床が黒くなってますね」


「血だ」


「血…………………血ぃ!!??」


熊谷は一瞬、自分が何を言われたのか理解できないかのように、和泉の言葉を反芻し、

数秒後にその意味を理解すると同時に小さく悲鳴を上げてその場から飛び退いた。


「いいい和泉さん!!?」


「ええい、黙れ!血を見たくらいでわめくな、それでも貴様警官か!?」


「うう、すいません…」


巨体をちぢこまらせて情けなさそうに零す。

既に幾度か除霊の経験はあるというのに、この臆病さは何とかならないものか…と和泉は内心で思った。






     ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆






「妙だな…」


「なにがです?」


船内を一通り見回ったところで、和泉は足を止め、呟いた。

その声を聞きとがめた熊谷がすかさず疑問を投げかける。


「死体が見つからんのは兎も角……妖気の残滓や、なんらかの術を行使した形跡も見当たらないのはどういうわけだ?」


「それは……この事件がオカルトとは無関係だということでは?」


「その可能性は考えた。だが、この仕事は室長がわざわざ上層部に働きかけて?ぎ取ってきた仕事だと聞いてる。

 ……“全く”何も無いとは考えにくい。」


「それじゃあ……室長に直接電話して聞いてみたらどうです?」


熊谷が何気なく言った台詞に、和泉はアッと声をあげて俯いた。

その顔は心なしか赤い。


「そ…そうだな。言われてみれば確かに」


仕事を任されたときの霧香の意味深な態度を深読みしすぎて、本人に直接聞くという選択肢があることを全く思いつかなかった。

気恥ずかしさを隠すように、少し乱暴な手つきで懐から携帯を取り出し、11桁の番号をプッシュしていく。

待合音が静謐な船内に小さく響く中。



突然、熊谷が和泉の肩を叩いた。


「どうした?」


和泉が振り返ると、熊谷は普段の彼らしからぬ気難しげな表情で船内のある方向を向いていた。


「和泉さん……何か変な臭いしませんか?」


「臭い……潮の香りや血の臭いではないのか?」


「いや……もっとこう…生臭いような…」


「………どこからだ」


和泉の眼が鋭く細まり、熊谷は和泉を先導するように船尾の方向に向かって歩き始めた。








「これは……確かに臭うな……」


暫くすると、和泉にも臭いが分かってきたらしい。

鼻を手で軽く押さえつつ、顔を顰めた。


「しかし、臭いな」


「ですよね…一体何の臭いなんだか…」


二人揃って、凄まじい悪臭に顔を顰める。

先に進むにつれて徐々に臭いは強くなっていき、既に鼻が曲がりそうなほどになっている。


「警戒しておけ…妖気は感じられんが、万一ということもある。」


言いつつ、懐から数枚の札を取り出す和泉。

熊谷のほうも、和泉に倣って懐からM60ニューナンブを取り出す。

やがて二人は悪臭の元にたどり着いた。


「この下だな……」


「下って……船底じゃないですか。」


「そのようだな。…何が出るかわからん。私が対応するから、お前が扉を開けろ。」


「は、はい。」


和泉が札を構え、熊谷は金属の取っ手を両手で握り思い切り捻った。


「じゃ、いきますよ」


「ああ。」


「せぇ…のっ!」


掛け声と共にドアを開け放つ。

同時に、吐き気をもよおすような悪臭が流れ込んできた。


「うっ……臭いなぁ……和泉さんなにか――――」


ありましたか?と続けようとして、熊谷は固まった。

何事にも動じないと言われている、鉄面皮の和泉が、顔面を蒼白にして顔を引き攣らせている。

嫌な予感を覚えつつ、それでも恐る恐る扉の向こうを覗き込み、熊谷は声にならない悲鳴を上げた。


「ぁ……ぅぁ……こ、これ…は…」


腰砕けになってよろめくように後ずさる熊谷。

普段なら彼を叱咤するであろう和泉も声をなくして固まっている。

扉の先にあったもの。

それは、臓腑を引き裂かれ、首を引き千切られ、体を挽肉同然に解体された数十人にも及ぶであろう死体の海だった。






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