「和麻様がお見えになりました」


使用人がそう告げると、広間の喧騒がぴたりと止んだ。

静寂の中、使用人が開けた襖を抜けて和麻が、続いて彼に数歩遅れて操が広間に入ってきた。

途端、、広間中から和麻めがけて非好意的な視線が集中する。

ちなみに最も険悪な視線を向けてきたのは綾乃だったりするわけだが。

それら悪意に満ちた視線の束を、和麻は無人の野を行くが如き態度で黙殺する。

そうした和麻の飄々とした態度に、酒宴の参加者たちは更に苛立ちを募らせた。

今まで見下していた者に、逆に見下されるほど不愉快なことはない。

ましてや和麻は、『見下す価値もない』とばかりに彼らの存在そのものを無視している。

その、あからさまに神凪を馬鹿にした(少なくとも彼らはそう受け取った)態度に、

周囲から向けられる視線は、ますます鋭さを増していった。






































蒼と黒の饗宴

第2部 第5話




































堂々たる足取りで歩いてくる和麻に、重梧はにこやかに声をかけた。


「遅かったな、和麻」


「ああ、仕事が忙しくてな……招待してもらっといて悪いが」


ちっとも悪いなどとは思っていない口調で言う和麻。

しかし重梧は納得したように頷いた。


「まあ、お前も何かと忙しい身だ。そういう事もあるだろう」


「そう言ってもらえると助かるよ、宗主」


「おいおい、宗主はないだろう。お前は貴広殿の名代なのだ。

 名前で呼んでもらっても一向に構わんのだぞ?」


「じゃあ重梧殿――――呼び難いな――――宗主って呼び方がどうも一番しっくり来る」


周囲から突き刺さるような視線を浴びせられながらも、全く気にしたふうもなく、和麻は重梧の隣に腰を下ろした。


(ふん、たいした“歓迎”だな)


それとなく、周囲を観察してみる。

周りから放たれる殺気、その他の気配を注意深く観察し、何かあった場合直ぐにでも反応できるように。

実際、彼らには和麻を憎む理由があったのだ。

風牙衆との戦いにおいて、神凪一族は11人の死者と10人の重傷者を出しており、

重傷者の8人はいずれも和麻によって倒された者達なのだ。

彼らの中には二度と退魔の現場に復帰できない程の傷を負った者もいる。

それだけに、身内を病院送りにされた者達の和麻に対する憎悪は根深いものがあった。

もっとも、和麻は術者8人を病院送りにしたことについて、まったく悪いとは思っていない。

何しろ彼らは和麻を無実の罪で糾弾した挙句、問答無用で殺そうとしたのだから。

和麻からすれば、分家の者達を返り討ちにしたのは正当防衛だったし、殺さないでおいただけでも感謝して欲しいくらいだった。

しかし、神凪の者たちには、そんな事は関係なかった。

彼らにとって、宗家に生まれながら炎術一つ使えない出来損ないなど、死んだとしても全く惜しくはなかったし、

むしろ、そんな出来損ないの手によって自分たちの身内を(例えそれが正当防衛であったとしても)病院送りにされたことのほうが、

よほど重大だった。


(ま、こいつ等がどう思っていようが仕事さえきっちりこなしてくれりゃ文句はないが…)


その時。

和麻のもとに一人の子どもが駆け寄ってきた。


「お帰りなさい、兄様!」


駆け寄ってきた煉は子犬がじゃれ付くように兄の腕にしがみついた。

和麻もそれを拒みはしなかったが、決して『ただいま』とは言わなかった。

此処はもう、和麻の――――八神和麻の帰るべき処ではなかったから。

煉は和麻の隣に腰を下ろすと、置いてあった徳利を持ち上げて和麻のほうに差し出す。


「お注ぎしますね」


「――――ああ」


和麻は盃を手にしたものの、注がれた酒には口もつけずに膳に戻した。

煉はきょとんとした顔でたずねる。


「飲まないんですか?」


「ん?ああ、酒は自前で持ってきたんだ」


そう言って和麻は懐からミニボトルを取り出し、そのままラッパ飲みした。

和麻にとって神凪は未だに敵地である。

一応、神凪は神崎・八神の傘下に収まった形になっているが、それとはまた話が違う。

神凪の人間は、和麻が『神崎』の一員であることを(表向きはどうあれ内心では)認めていないのだ。

それゆえ、神凪の人間の手が加わった料理や酒に口をつけたりはしない。

まあ、神崎の名代として来ている席で毒を盛られるようなことはないと思うが、念のためだ。


(それにしてもまぁ、あれだけ身内を殺されて、よく宴会なんぞひらけるな)


広間のあちこちで見られる馬鹿騒ぎを白けた面持ちで眺めながら、ミニボトルの酒をまた一口含んだ。

口内で暫く味わってからゆっくりと嚥下し、それから酒臭い息をたっぷりと吐き出す。

近所の酒屋で買った国産ウィスキーで、大して高級な品でもないのだが和麻は気に入っていた。

酒精で体が暖まっていく感覚を楽しみながら、古めかしいデザインのラッキーストライクを咥えて火をつけた。

紫煙を吐き出しつつ、思う。

神凪は確実に滅亡に向かっている、と。

風牙衆の反乱によって神凪が失ったものは余りにも大きい。

この戦いで神凪はいったい何を失ったのだろうか?



術者の大量損失?



多額の賠償金?



確かに、これらは笑って済ませられるものではないが、かといって致命的というほどの損害ではない。

殺された術者は分家の者ばかりであり、神凪の血を後世に伝えるうえで最も重要な存在であるところの『宗家』の術者は、

ほぼ無傷であったし、多額の賠償金についても、結局のところ神凪一族を破産させるほど致命的な額ではなかったからだ。

真に致命的なのは、風牙衆という神凪の“眼”と“耳”を失ったことだろう。

情報関係を全て風牙に任せきっていた神凪は、情報収集能力と呼べるようなものは全く持ち合わせていない。

どころか、もたらされた情報を分析・選別する能力も欠如している。

そうなると必然、神凪としては情報関係を外部の組織・情報屋に頼るほかなくなる。

これは、神凪の命綱を外部の人間に握られるに等しい。

これまでの神凪では、情報を風牙衆が集め、集まった情報を風牙衆の頭領や長老方が徹底的に分析・選別したうえで、

『確実』な情報のみを神凪に送るという仕組みだった。

この図式を見て解るとおり、情報収集・分析の過程において神凪はまったく参与していない。

情報に関するノウハウは、これより先、一から蓄積していかねばならないのだ。

だが……

こいつらはそれがわかってるのだろうか?わかってねぇんだろうなぁ…

事態の深刻さに気づきもせず、馬鹿騒ぎしている者たちに侮蔑の篭った眼差しを向けながら、和麻はまた一口、酒を飲んだ。







     ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆







「さて、宴もたけなわの頃だし。そろそろ帰るかな」


ふと、和麻は時計を確かめてからそんな事を言った。


「ええっ、まだ来たばかりじゃないですか?」


煉が驚いたように声を上げる。


「とはいえ宗主にはもう挨拶したし、一通り用は済んだからな」


正直なところ周囲から殺意の篭った視線で睨まれる中で宴に興じることができるほど和麻は神経が太くはない。

用が済んだらさっさと帰りたいところだ。

家に帰って翠鈴に晩酌でも付き合ってもらったほうが、こんな針の筵で酒を飲むよりは余程良い。

煉に一言侘び、立ち上がろうとしたところで、一人の女性が近づいてきた。


「あら、和麻さん。もう行かれるのですか?」


おっとりとした口調で話しかけてくる和服姿の中年女性に、和麻は奇妙な既視感を覚えた。


「あんたは……」


記憶の糸を手繰り寄せようとしている和麻の隣で煉が声を上げる。


「母様!」


その言葉を聴いて、ようやく和麻は思い至った。


(母様?するってーと、この女は……)


和麻はぎょっとしてその女性を見た。

刹那、和麻の脳裏を幾つもの記憶が過ぎった。




――――――――自分がまだ神凪和麻であった頃。



彼女の歓心を買うために、和麻は身を削る思いで己を磨いた。



出来もしない炎術を、己が得意とする武術を、勉学を……



だが、彼女は振り向かなかった。



彼女が向いていたのは煉。



出来損ないの兄とは違い溢れんばかりの炎術の才に恵まれた弟だけを、彼女は見ていた。



そして、継承の儀の後、彼女からかけられた“ひとつの言葉”が、それまでの和麻を完全に打ち壊した。



和麻の、それまでの人生を否定した――――――――




「――――様、兄様!」


「ん……どうかしたか煉?」


「どうかした、じゃないですよ…急に黙っちゃって」


頬を膨らませて言ってくる煉に、和麻は苦笑を浮かべながら頭を撫でてやる。


(なるほど……今の今まで存在自体忘れてたが、そういや俺にも母親なんてものがいたんだな……)


そんな事を思いながら、目の前に立つ女性に向き直った。




神凪深雪。




かつて自分を見捨てた母親に。





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