――――――4年前






初めて入った母の部屋で、和麻はそわそわと落ち着きなく、深雪の返事を待っていた。

対照的に、正面に座す深雪は悠然とした態度を崩さない。

まるで世間話でもしているように落ち着き払っていた。

永遠にも思える沈黙だったが、実際には1分にも満たなかっただろう。

父に勘当を言い渡され、絶望の淵から母に助けを求める息子に向かって、深雪はゆっくりと口を開いた。


「和麻さん。貴方は勉強もよく出来て、運動も得意でしたね。学校の先生も褒めていらっしゃいましたよ」


「は……母上?」


深雪の言葉は、和麻の期待を大きく外れていた。

厳馬へのとりなしを頼んだのに、これではまるで……


「残念です。これで炎術の素質さえあれば、私も貴方を優秀な息子として愛することが出来たでしょうに」


これではまるで……別れを告げているようではないか。

その時、和麻は気づいた。

深雪が過去形で話していることに。

母にとって、深雪にとって、全ては終わっていたのだ。

息子が勘当されたことを、生まれ育った家から放逐されることを、既定の事実として受け入れている。

炎術師にもなれない息子は不用だと、切り捨ててしまっていた。


「は……ははうえ……」


認めたくない。

理解したくない。

理解してしまったら……これまでの自分の人生はどうなるのだ!?

炎を扱う才能が無いことなど、もう何年も前から悟っていた。

それでも諦めなかったのは、両親の期待に答えたいが為だったのだ。

厳馬は退魔業の合い間の余暇、そのほとんどを費やして自分を鍛えてくれたし、

深雪は他の一族の者達のように面と向かって和麻を無能呼ばわりすることはなかった。

自分はまだ期待されているのだと、努力すればいずれは報われるのだと信じていた。

いや、無理矢理信じ込んできた。

だが……


「一千万円入っています。些少ですが、これからの生活の足しにするといいでしょう。風邪などひかぬよう、元気で暮らすのですよ」


震える声で助けを求める息子に、母親がかけた言葉がそれだった。

母は―――――――深雪は微笑さえ浮かべていた。

一枚のカードを手切れ金とでも言わんばかりに差し出し、決別の言葉を投げかけた。

彼女にすれば最大限の好意を示したつもりだったのだろう。

渡された一枚のキャッシュカードと母の顔を、絶望に染め上げられた表情で見る息子の様子に、

「この金額では不足なのか?」とでも言いたげに眉を顰めていたのを覚えている。


「待って…待ってください母上!わ、私はこの家に…」


「…和麻さん」


それでも諦めきれずに縋ろうとする和麻。

彼の言葉を遮るように、深雪は口を開いた。


「父様は貴方に何と言われたのです?」


「そ、それは……」


「……私から言うべき事はありません。……さあ、もうお行きなさい」


決定的だった。

和麻は深雪の目を見て、凍りついた。

彼女が和麻を見る目は、息子を見る目ではなかった。

道端でのたれ死のうとしている小動物でも見るような、哀れむような眼差し。






――――――その日







――――――神凪和麻は両親を失った














(我が人生で1,2を争うトラウマだな……)


過去の出来事が脳裏に甦り、どこか茫洋とした表情で沈黙する和麻。

内心では、どうして自分の少年時代というのはこうも悲惨な思い出ばかりなのだろうかと思っている。

理由?そんなもの考えるまでもない。


(神凪に居たからだ。それしかねえ…)


心の中で、和麻は力強く断言した。




































蒼と黒の饗宴

第2部 第6話




































そして現在。

宴は未だに続いており、和麻は未だにそこに居た。

宗主に挨拶だけして直ぐに帰るつもりだったのだが、深雪という予想外の人物が現れたことで、帰るタイミングを逸してしまったのだ。

それに今、膝の上では煉が眠っており、起こすのも気が引ける。


(さっさと帰りたいんだけどな)


少し前まで話していた深雪の姿を視界の端に捉え、嘆息した。

見たところ、過去のことなど全く意に介していないかのようにふるまっている。

なにやら不気味ではあるが、問題が起こらないのであれば和麻には文句は無い。

残り少なくなってきた自前の酒をちびちびやりながら、内心で愚痴を垂れる。

そんな時、和麻のもとに近づいてくる人物が居た。


「居心地が悪そうだな」


そう言って近づいてきたのは大神雅人だった。


「当たり前だ。この空気の中で楽しく酒が飲めるほど図太くはねえよ」


露骨に不機嫌な面持ちで和麻が言い返すと、雅人はニヤリと笑みを浮かべて一升瓶を差し出してきた。


「せっかく来たんだし酒くらい飲んでいったらどうだ、毒なぞ入っていないぞ?」


そう言って雅人は自分でそれを盃に注いで一息に飲み干した。

次いで、重梧のほうを見る。

重梧は心得たように自分の膳に伏せて置かれていたコップを手に取り、和麻に差し出した。

和麻が食器に毒が塗られている可能性を考えていると知った上でのことだ。

宗主に此処まで気を使われては和麻も否とは言えない。


「む、まぁ少しくらいならいいが」


そう言って重梧からコップを受け取り、雅人に酒を注いでもらう。

一口飲んで目を見開いた。


「こりゃ……美味いな」


「付き合いのある業者から譲ってもらったものだ。なかなかいけるだろう」


確かに美味い。

だがこうも思う。

この酒をもっと別の所で飲んでいればどれほど美味い酒になっただろうか…と。

周囲の人間からの悪意に満ちた視線に囲まれながら酒を飲むというのは余りいい気分ではない。


(おまけに……)


和麻は風の精霊を動かして広間のあちこちから声を拾ってみる。



――――――「風術師如きが我ら神凪に楯突くなど不届き極まりない!」



――――――「まったくもって然り。精霊王の祝福を受けし我ら一族に牙を剥くとは、天をも恐れぬ所業よ」



――――――「そういえば、神崎が討ち漏らした連中がどこかに潜伏しとるらしいが……」



――――――「ふん!どこまでも生き汚い奴らよ……儂の前に現れたなら直ぐにでも灰燼にしてくれるものを」



――――――「ハハハ!まあ良いではないか。あのような下賎な輩の始末など、

       例の風術師ども――――八神とかいったか?――――にでもやらせておけばよい」



――――――「そうじゃ。我らは奴らがのたれ死ぬのを高みから見物しておれば良いのだ」




(……これだからな。)


聞いてるだけで胸糞が悪くなる。

それに神凪一族が八神家をどのように見ているか知れようというものだ。

ひょっとして八神を風牙衆の代わりだとでも思っているのだろうか?だとしたら大きな間違いだ。

八神は基本的に神崎と同格とはいかないまでも対等に近い家であり、和麻が神崎の利益代表を任じられていることから、

立場的には神凪よりも上位に位置づけられる。

かつて風牙衆に対してやっていたように顎でこき使うようなことは出来ない。どころか、神凪のほうが八神に“使われる”側なのだ。

おまけに、彼らの台詞の端々から感じ取ることが出来る風術師に対する根拠のない優越感。

風牙衆によって、一時は滅亡の瀬戸際まで追い詰められたにも拘らず、彼らはあの戦いから何一つ教訓を学んでいないらしい。


「こりゃあ宗主に同情しちまいそうだ……」


苦笑交じりに呟くと、それを聞きとがめた雅人が話しかけてきた。


「ん?何か言ったか和麻」


「いや、なに。連中、随分浮かれてると思ってな」


そう言って、先程から風牙衆に対する罵倒、誹謗中傷を繰り返している一団に向けて顎をしゃくって見せる。

和麻に釣られてそちらを向いた雅人は、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。

その傍迷惑な一団の中には彼の兄である大神雅行もいたのだ。

彼の傍らにいる武哉はというと、毒気に当てられたのかぐったりと首を垂れていたりする。


「まあ俺には関係のない話だが……これから神凪は大変じゃないか、ええ?風牙衆の代わりが務まるような情報屋は滅多にいないぞ?」


「ああ、確かに…な……」


風牙衆壊滅後の神凪の情報収集力については、重梧や雅人の悩みの種でもあった。

まず間違いなく、風牙衆の代わりが務まるような組織・情報屋は存在しない。

考えても見て欲しい。

国内でも5指に数えられる情報収集力・分析能力。

情報屋としての能力もさることながら、戦闘においては支援要員として活躍し、神凪一族に対しては絶対服従。

どんな理不尽な命令にも従い、無償で馬車馬の如く働く奴隷。…………って、考えるのもアホらしくなってきた(怒)


「訂正。風牙衆みたいな連中は絶・対に見つからん。」


「あ、ああ。そうだろうな(汗)」


冷や汗をタラーリと流しつつ、雅人は答えた。

当然である。というか、これほど好条件で風牙衆を配下にしていながら、

過剰ともいえる酷使によって彼らの反乱を招いてしまった神凪の傲慢ぶりには殺意すら沸く。

風牙衆の労働条件や能力を他の退魔方が知ったら頭を掻き毟ることだろう。

これほど優秀で、使い易く、コストのかからない手駒など世界中探しても見つかるまい。

和麻は思った。

別に風牙衆に同情しているわけではないし、安っぽい人道主義を振りかざすつもりもないが、

偶に飴をしゃぶらせてやるくらいのガス抜きでもしてやれば、ここまで酷いことにはならなかっただろうに、と。


「いずれにせよ。ああいった連中の意識を変えないことには代わりが見つかっても風牙と同じ結果になるだけだろうがな。

 ま、頑張るこった。」


そう言って和麻は肩をすくめた。

神妙な顔で沈黙する雅人。

だが、そこに綾乃が噛み付いてきた。


「な、なに他人事みたいに言ってんのよ!自分の生まれ育った家のことでしょうが!?」


「お、お嬢よせ…」


「叔父様は黙ってて!!」


横から宥めようとする雅人を、綾乃はぴしゃりと払いのけた。

そのまま暫くの間、和麻と睨みあう。……いや、正確には、綾乃が一方的に和麻を睨みつけているだけなのだが。


「なあ綾乃」


ややあって、和麻が口を開いた。


「な、なによ」


「あの連中を見て何とも思わないか?」


そう言って和麻は広間のとある一点を…正確には、風牙衆の壊滅を喜び、神凪一族の威厳と強さをしきりに誇示している雅行達を指し示す。



「あの人たちが…なんだって言うのよ」


訳が判らないと言いたげにむくれる綾乃。

その様子に、和麻は処置無しといわんばかりに肩を竦めた。


「………そうか。なら俺から言うことは無いな」


嘆息したようにそれだけ言って、和麻は立ち上がった。


「ちょ、ちょっと!どこ行く気よ!?」


「なに、宴もたけなわという所だし、そろそろ中座させてもらう。

 …宗主、今宵はお招きに預かり、八神・神崎宗主名代として礼を言わせて貰いたい」


「……あ、ああ。感謝を容れよう。八神和麻殿」


突然、居住まいを正した和麻に驚きつつも、重梧は型どおりの礼を返した。








    ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆








和麻が邸を後にするのを見送り、広間に戻ってきた雅人と重梧は、

不機嫌そうに座り込んだままの綾乃を見て、どうしたものかと顔を見合わせた。


「なんなのよ!あいつは!」


「お嬢」


不機嫌そうに文句を言う綾乃を見かねたように、雅人は声をかけた。


「おそらく和麻が言っていたのは……我々神凪の傲慢に対する批判だろう」


言葉を慎重に選びながら噛んで含めるように言う雅人に、綾乃は頬を膨らませる。


「傲慢って……あたしたちのどこが傲慢だっていうのよ」


「お嬢がそうだという訳じゃない。だが、風牙の反乱一つとっても、原因は神凪の行き過ぎた風術蔑視が基だろう」


「それは、そうかもしれないけど」


雅人に言われて、綾乃も不承不承ながらそれを認めた。確かに、神凪の風術蔑視は行き過ぎていたように思う。

和麻に指摘されるまでは気づきもしなかったが、言われてみれば兵衛が一族全員の前で公然と罵倒されるのは綾乃も何度か見たことがある。

それも、風牙衆が何か不祥事を起こしたという訳ではない。

冗談の種として、あるいは炎術の強大な力を誇示するために、風牙衆は公の場であっても神凪から公然と罵倒された。

賓客が見ている前で下術と罵られることもあった。

同じ精霊術師に対して、著しく礼を欠いていたのは事実だろう。


「神凪の風牙衆に対する扱いは……お世辞にも褒められたものではなかった。

 これは俺も最近になって知ったのだが、退魔業で命を落としたことになっている術者の内少なくない数が、

 実は神凪の者からの私的な暴行・リンチで殺されていたらしい。」


「う…………そ……。そんな…」


自分たちが風牙衆をどう扱ってきたのか。

その実態の一端に、綾乃は顔面蒼白になって肩を震わせる。

綾乃の脳裏に、かつて兵衛が言っていた言葉が甦る。

―――――戦場だけでなく日常においても風牙衆に安息の日々は無かった。

あのとき兵衛が漏らした神凪への呪詛。

あの憎悪に濁りきった瞳。

あの時は、妖魔に魂を売り渡したものの戯言だと思った。

息子を妖魔に売り渡すような男の言葉に聞く価値などない、と。

だが、彼をそこまで追い詰めた原因は何だったのか?

そこまで思い返してみて、綾乃は我知らず身震いした。

綾乃のそんな姿を視界に留めながら、雅人は口元を皮肉気に歪めた。


「俺たちは…自分たちの血に宿る力の強大さに溺れていたのかも知れんな。

 炎術の力を絶対視した挙句……この様だ。多くの術者が死に、父祖の代より受け継いできた財産も殆ど手放す羽目になった。

 馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、俺には精霊王の罰が下ったように思えるんだよ」


「叔父様……」


酷く落ち込んでいる叔父に、声をかけることも出来ず、綾乃は途方に暮れる。

その時。それまで沈黙を守っていた重梧が口を開いた。


「綾乃。」


「お父様…」


「確かに、我ら神凪が道を違えていたのは事実だろう。これから神凪にとって辛い時代が訪れる」


それは重梧にとって懺悔でもあった。

風牙の惨状を、神凪一族が精霊術師としての道を踏み外しかけていたことを。

それらに気づいていながら、なんら有効な策を講じることが出来なかった。

ある意味、今の神凪の窮状は重梧の判断の甘さが招いたことであり、重梧もそれを痛感していたのだ。

それゆえに、今から重梧が言おうとしているのは彼にとってひどく重い意味を持つものであった。


「忘れるな綾乃。4大精霊と謂われるように精霊魔術の価値は等しく、それぞれ長所を持っておる。

 今までの神凪のように力のみを絶対視しているようでは……我らは遠からず滅ぶことになる。

 我らを支えてくれた風牙は…もうおらんのだからな」


滔々と語りながら、重梧は思う。

なぜもっと早く、風牙が暴発する前に行動を起こさなかったのか。

一族内に不協和音をもたらすことを恐れて、事態の深刻さに気づきながらも放置することしか出来なかった。

何と愚かしい!!『神炎使い』『紫炎の重梧』などと誉めそやされて、自分も増長していたのだろうか?

肝心なときに決断を躊躇った結果……その結果がこれだ。

多くの術者が死に、神凪は風牙衆という味方を失った。

神凪の再建は生半な事ではできないだろう。

おそらく『負債』の多くは娘であり、次期宗主である綾乃に負わせる事になってしまう。


(全て…私の責任だ…)


「綾乃……次代の神凪を担うのはお前だ。長い年月を経て刷り込まれた他術蔑視の考えは……そう簡単には変わらんだろう。」


そして重梧は和麻が座っていた座布団の上で眠りこけている煉に目を向け、次いで綾乃に視線を戻して言った。


「これより先、神凪は神崎家の下で退魔業を行うことになるだろう。これを神凪の没落と取る者もいるやもしれん。

 だが、私はそうは思わん。綾乃。煉や、他の若手の術者たちと共に神崎の、八神の戦いを、彼らの姿を見聞するのだ。

 そして、精霊術師とはいかにあるべきか……おまえ自身が見つけ出せ。それが神凪の未来を切り開いてくれるものと儂は信じている」


「お父様……」


綾乃は父の心の裡の吐露に、心を打たれていた。

どうにも情けなく、恥ずかしい。

次期宗主でありながら、神凪の未来について真剣に考えたことなど殆ど無かった。

風牙の反乱についても、神凪滅亡の危機が去ったという程度にしか捉えていなかったのだ。

風牙衆の扱いについてもそうだ。

生まれてから日常的に隷属される風牙衆を見てきた綾乃は、いつしかそれが当たり前のことだと思うようになっていた。

一片もその行為をおかしいと思うこともなく、疑うことも、その行為に疑問を抱くこともなかった。

しかし和麻の言葉を聞き、重梧に、雅人に諭され、よく考えれば今までの自分達の行為がいかに間違っていたのかと言う事が理解できた。


「お任せください、お父様。」


そういって綾乃は、晴れ晴れとした表情で頭を深く下げた。









    ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆









「待たせたな」


神凪邸の門をくぐって外に出ると、八神邸のリムジンが停まっていた。

車の前に立つ黒服の男が後部ドアを開ける。


「随分長く居られましたね?」


「ま、美味い酒も出たしな。翠鈴は?」


言いながら和麻は車内に乗り込む。


「夕食の用意をされてお待ちです。」


「なに……そりゃ大至急戻らんとな。家まで超特急で頼む」


「承知いたしました」


運転手が笑ってエンジンをかけ、黒服の男が後部ドアを閉めようとしたとき。


「……あ〜、少し待ってくれるか?」


そう言って和麻は黒服がドアを閉めるのを止めた。


「?……何か問題でも」


「ん〜、ちょっとな」


瞑目し、暫く黙りこくっていた和麻はやがて口元に笑みを浮かべてドアから手を離した。


「もういいぞ。締めてくれ」


「承知しました。」


バタンとドアが閉まり、黒服は助手席に素早く乗り込む。

車が走り出してから暫くして、運転手は後部座席に座る主が笑い声を漏らしていることに気づいた。


「何か良い事でもあったんですか?和麻さま」


「いや、なに……」


そう言って和麻は、もう既に見えなくなった神凪本邸の方角を振り返った。


「神凪一族も……腐った連中ばかりじゃないな……と思ってな」


くくっ、とくぐもった笑いを漏らして和麻は視線を前に戻した。


「さて……明日からは忙しくなりそうだな」


そう呟く和麻の表情にはどこか満足げな笑みが漂っていた。





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