深夜――――――



「ああクソッタレ……よりによってこんな日に遅番なんて、畜生め」


夜の埠頭。

その倉庫街をライト片手に歩く男がいた。

青を基調とした警備員の制服を着て巡回を行っている。

彼の名は高橋修一。

その服装が示すとおり警備員である。

今日の仕事は気が乗らなかった。

近場で何か“事件”があったらしく、埠頭の至る所にはポリスラインのテープが張られており、それが彼を不安にさせていたのだ。

もし強盗か何かだったらどうするのか?警備員などといっても正直、荒事は得意ではない。

休んでしまおうかとも思ったが、職場の同僚には昼頃元気な姿を見せてしまったので仮病を使うわけにもいかない。

無断欠勤など論外だ。……そんなわけで彼はここに居た。

流石にその“事件”の内容が大量殺人だとは知らなかった(知っていれば無断欠勤だろうが間違いなく休んでいる)が。

幸いだったのは、警察が敷いたポリスラインが彼の巡回区域にも入り込んでおり、いつもより早く巡回が終わりそうだということくらいか。

ふと、腕時計を確認する。

もう間もなく午後11時になろうとしていた。


(さっさと終わらせて帰ろう。)


給料の高さに惹かれて始めたアルバイトだが、どうにもおっかない。

少し前までやってた大手スーパーの駐車場交通整理と同じように考えていたのが、そもそもいけなかったのか。

そんなことを考えて歩き始めたその時。


(んん?なんだこの臭い…)


泥っぽい、何かが腐敗したような悪臭が鼻についた。

港には悪臭のする荷が結構あったりするが、こんな臭いは嗅いだことが無い。

わけも無く、背筋に震えが奔った。

本能がけたたましく警報を鳴らす中。

彼はなんらかの危険が迫っているのか、また逃げ出したほうがいいのか判断がつかなかった。


「な、なんだよ……なんなんだよ!!!」


自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。

彼はそれを見るというよりも感じ取った。

なにかが。

なにかが自分を見ている。


「な……なんなんだよおおおおおおっ!!!!」


彼は駆け出した。

もう巡回のことなど頭には無い。

遠くに、少しでも遠くに逃げないと……

息を切らせて走る中、彼の五感は明敏に感じ取っていた。

何かが、倉庫街を抜けて走ってくる。

全力で疾走しながら、それでも悪臭は消えるどころかますます強くなっていく。


「た…すけて!助けてくれええええええええぇ!!!!!」


男の絶叫が、深夜の倉庫街に木霊した。




































蒼と黒の饗宴

第2部 第7話




































――――――無能者!!



――――――透君!こんな奴燃やしちゃいなよ!



――――――ハハハハ!景気よく燃えてやがるぜ。ほらほら、避けねえと死んじまうぞ和麻ぁ!




――――――炎術も碌に使えねえ奴が口答えしてんじゃねえ!

















――――――――――――「■■■■■■■■■■」

















「――――――っ!!」


和麻はベッドの上でぱちりと目を覚ました。

寝起きは悪いはずなのだが、これ程までにはっきりと覚醒するのは、決まってあの頃の夢を見たときだ。


「最悪の寝覚めだな……」


神凪に居た頃の、思い出したくも無い記憶の数々。

悪夢のような日々。

アルマゲストとの戦いや、アーウィンに翠鈴を奪われかけた時の事さえ、もう夢には見なくなったというのに……


「ったく……情けない」


自嘲気味に和麻は哂った。

宗主などは自分のことを超人のように思ってるみたいだが……実態はこんなものだ。

確かに和麻は当時彼を虐待していた者たち全員を一瞬で捻り潰せるだけの力を得た。

だがそれでも、かつて虐待されていたという過去が消えるわけではない。

あの頃に受けた傷は未だに和麻の中に息づいている。


「トラウマっつうのかな……なかなか吹っ切れないもんだ」


アーウィンとの、アルマゲストとの戦いの中で、和麻は無数の傷を負った。

それこそ、かつて神凪で受けた傷以上の重傷を負ったことも、それこそ数え切れないほどあった。

だが、幼年期から少年期という多感な時期に家族や親族から受けた幾つもの傷は、

重梧や厳馬の、そして和麻自身の想像もつかないところで彼の精神を蝕んでいた。

未だにあの頃のことを鮮烈な記憶として思い出せることがその証左でもある。

神凪一族の面々などその殆どを忘れ去っていた和麻だが、そこで受けた傷だけは、今になっても色褪せぬ記憶として残っている。

だが、これでもマシになったほうだ。

翠鈴に出会うまでは、毎晩悪夢にうなされていたのだから。


「和麻?」


「ああ、悪りぃ。起こしちまったか」


隣で寝ていた翠鈴が、和麻の様子に気づいたらしい。

すまん、と憔悴の色を滲ませながら言う和麻の頭を翠鈴は軽くはたいた。


「って!!な、なにしやがる!?」


「……お馬鹿。そんな顔で謝られて……私にどう反応しろっていうのよ」


翠鈴は悲しげに眉を寄せる。

和麻が何もかも一人で抱え込もうとしているのが、付き合いの長い翠鈴には手に取るように解った。

和麻にしてみれば、自分に余計な心配をかけたくないという気持ちの表れなのかもしれないが。

だが、こんな時くらいは自分を頼って欲しい。

そのまま翠鈴は和麻の頭を両手でわしっと掴み、自分の膝の上に強引に乗せた。


みしり……


「ぐげッ…!」


首が変な方向に曲がったらしく、和麻が蛙の潰れたような悲鳴を上げる。


「もう、辛くなったら……私を頼ってくれて良いんだから。私だって、偶には和麻の役に立ちたいもの」


慈しむように和麻の髪を撫でる翠鈴。

本来なら和麻にとって極楽に等しい行為なのだが、生憎と今の和麻はそれどころではない。


(つ、翠鈴!!首が…っ!首が変な方向にっ!!!)


「ふふっ、思い出すわね。付き合い始めたばかりの頃、寝起きでうなされてる和麻をよくこうしていたっけ……」


(し、死ぬ!!だ、誰かっ、誰か来てくれぇっ!!)


翠鈴に優しく頭を撫でられながら、和麻は本当に極楽に逝こうとしていた。












八神家の一日はこうしてはじまった。






     ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆






熊谷由貴は警官という仕事に誇りを持っていた。

昔から要領が悪く、今でも上司の倉橋和泉から何度その事で叱責されたか知れない。

だが、それでも仕事に嫌気が差したりすることは無かった。

常に職務に精励し、その熱心さに関しては和泉も、そして彼がいる組織のトップである橘警視も認めてくれている。

……少なくとも、熊谷自身はそう感じている。

しかし、この時。

熊谷は初めて仕事の内容に忌避感を覚えていた。


「お2人とも、こういった死体には慣れていますか?」


白衣の男にそう問いかけられ、熊谷はそんなわけないと言い返そうとして、


「ええ、職業柄」


隣に立つ和泉に先を越されてしまった。


(い、和泉さん!?)


(煩い!黙れ!貴様も警官の端くれだろう!いい加減腹をくくれ!!)


小声で怒鳴りつけるという器用な真似で、和泉は熊谷を黙らせる。

そんな2人をさして気にも留めない様子で、白衣の男はクリップボードに鋏まれた書類をめくる。


「なら安心ですね。ではこれより、検死解剖に移ります」


顔を青褪めさせた熊谷を前に、白衣の男は言い放った。

そう。

これから行われるのは貨物船の惨殺死体の検死解剖なのだ。






熊谷の見ている前で、男はラテックスの手袋を二重にはめ、医療用マスクとゴーグルを着け、ビニールのエプロンを着た。

和泉と熊谷も同じような“装備”を身につける。

その時、扉が開き、担架に乗せられて死体が運ばれてきた。

一緒に入ってきた男がその横に立つ。どうやら助手らしい。

身体をズタズタに引き裂かれたそれを見て、熊谷は今朝寝坊して朝食を食べ損ねてしまったことを天の配剤だと思った。

信じてもいない神に、熊谷が祈りをささげている間に、遺体の検証は始められていた。


「ラテン系の男性。年は40代半ばといったところですね。身長は……首が切断されているため詳細は不明。

 恐らく170〜180cm。体重は67kg。遺体について、他に記録すべき特徴は無し。……宜しいですか?」


「ええ。」


短く答える和泉。

既に慣れてしまったのか表情は平静そのものである。

逆に熊谷はというと身をちぢこめさせて死体から目を逸らしている。

……彼はここに何しに来たのだろうか?


「山岸君。そこを持ってくれ。」


白衣の男は助手に呼びかけ、死体にかけられた厚手のビニールを剥ぐ。

そして解剖は始められた。

白衣の男は感情を感じさせない声で、死体の状況を淡々と解説していく。


「瞳の色や顔つきは頭部の大きな損傷により判別不可。脚や足、性器には傷痕、痣はなし。

 山岸君、腹部をスポンジで拭ってくれ……ありがとう。

 数は不明だがいくつかの大きな裂傷があるな…胸部左正面から190度下方へと切り裂かれ、肋骨と胸骨を貫通し、

 右正面腹部で終わっている。かなり深いところまで内臓が抜かれてるな……大動脈から重度の出血あり。

 内臓を完全に暴かれ胃、小腸、大腸を完全に喪失。……一体どうやればこんな傷を……」


白衣の男はそこで初めて戸惑ったような声を上げた。


「どうしたんです?」


和泉はそんな彼に声をかけた。


「この傷痕だ。まるで……人間の噛み痕みたいに見えるが」


「人間がやったと?」


「莫迦な!!ありえないね。人間がやったとしたら、そいつは余程あごの強い奴だ、ギネスブックにだって載るぞ!?」


男はひとしきりまくし立てると、遺体に手を着けた。


「この頭部も可笑しい。軸椎と環椎のあいだで首が切断されてる…それだけならまだしも、

 頚骨前頂部に穴をあけられて中を弄られてるようだ。……脳の中は完全に吸い出されてるようだな。それに―――」


さらに男が続けようとしたとき。

ブザーが鳴り、扉が開いて背広姿の男が入ってきた。


「君!!今は検死解剖中だぞ!!」


怒鳴られた男は一瞬怯んだようだが、直ぐに気を取り直して和泉に声をかける。


「倉橋警部。警視庁の橘警視からお電話が入っております。」


「そうか、わかった」


流石にここでは携帯は切ってある。


「桐原先生。申し訳ありませんが私はここで失礼させていただきます。」


「そうかね。資料は後でそちらに送付しておこう。

 あと……ついでに彼を連れて行ってくれるか?ここで吐かれてはかなわん」


桐原と呼ばれた白衣の男は死体の前で口元を押さえている熊谷を指し示して言った。


「………わかりました」


和泉は頭痛を堪えるように頭を押さえ、答えた。

 



 

     ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆       ◆







「倉橋です。……ええ、はい。詳しくは判りませんが、恐らく人間の仕業ではないでしょう。

 妖気の残滓は無かったので、猛獣の仕業という線も捨て切れませんが。詳しくは検死の結果待ちという事に…はい。

 ………了解しました。」


受話器を置き、和泉は隣でしょげ返っている熊谷を見た。


「すいません」


「馬鹿者が。最初から貴様に期待などしていない。」


「そ、そんなぁ〜」


「喧しい!それより、橘警視からの指示だ。横浜に向かうぞ」


「横浜って……例の貨物船ですか?」


「いや。なんでも埠頭の近くでまた死体が見つかったらしい。」


和泉も困惑しているらしく、その回答は要領を得ない。


「殺された……んですか?」


「らしいな。まったく、昨日の今日、それも警官が張り付いてた現場付近で見つかるとは……いい恥さらしだ」


ブツクサ文句を漏らしながらも、きびきびとした足取りで駐車場に向かって歩いていく和泉を、

熊谷は慌てて追いかけた。






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