1994年11月。
肌寒い空気の中。
太陽もまだ昇りきらぬような時刻。
朝靄が漂う広々とした空き地にて、2人の少年と一体の異形が対峙していた。
少年たちは、いずれも中学生か高校生と思しき年頃であり、片やその2人と対峙する異形は身長3メートルは越すであろう牛頭の巨人であった。
両者は20メートルほどの間隔を空けて互いに向き合っており、そこから更に数十メートル離れた地点には、
両者を遠巻きに眺める観客と思しき10名弱の男女の姿も見える。
「始めよ」
観客の中からしゃがれた男の声が辺りに響き、同時にそれまで張り詰めていた空気が弾けた。
最初に動いたのは異形の方だった。
巨体に似合わぬ敏速な動きで一気に間合いを詰めると、華奢な獲物を一撃で叩き潰すべく、
黒々とした巨腕を少年の頭上に振り下ろす。
迫り来る豪腕を、しかし少年は動じることなく見据え続ける。
轟音。
振り下ろされた異形の腕は少年ではなく彼が一瞬前まで立っていた地面を穿っていた。
観戦する者達の中から微かにどよめきが漏れる。
それは突然姿を掻き消した少年に対するものだろうか?
直後、異形の巨体が弾かれたように真横に吹き飛んだ。
「流也!!」
異形を一撃で吹き飛ばした少年……和麻が叫ぶ。
間髪入れず異形の周囲の空気が揺らぎ、不可視の刃があらゆる死角から異形を切り刻むべく撃ち込まれる。
ヴォオオオォォオオォオオ!!!
異形の口から此の世のものとも思えぬ絶叫がほどばしり、身を捩じらせる。
だが……
「決定打には、なりませんか」
隣から突然声が聞こえ、和麻はそちらに顔を向けることなく答える。
「だな。ああいうタイプは“外”からの物理的な攻撃には強い」
和麻が言うと、彼の言葉を裏付けるように、異形は咆哮を上げてこちらに向かってきた。
「そうなると、やはり…」
「“中”から破壊するしかねぇか」
「ですね。私が動きを封じる…のは流石に無理ですが、動きを鈍らせるくらいならできます。その隙にアレを…」
「了解だ」
短く言って、少年2人は一斉に地を蹴った。
風牙の風
第9話 1994年H
「上手い具合に仕上がったようではないか、周防」
少年二人が異形の怪物と大立ち回りを演じている光景を遠巻きに眺めつつ、兵衛は傍らの男に向かって呟いた。
ここは神凪一族が所有する山の一つ。その一部を切り開いて作られた鍛錬場であった。
とはいえ、神凪の者は滅多に利用することはない。広さからいえば、神凪本邸の庭でも充分に鍛錬場としてのスペースはあるからだ。
故にこの鍛錬場は実質的には風牙の貸切状態となっている。
本邸から遠く離れた山中の鍛錬場に兵衛がわざわざ足を運んだのは、彼が前々から進めていた、風牙の戦力強化。
その成果を確かめるためであった。
和麻達の戦いを横目に、兵衛は周防より報告を受けていた。
「今のところ、総合的に見て最も完成しているのがあの御2人です。
他の術者全員をあの段階まで引き上げるには、まだ時間がかかるでしょうな」
「まあ、簡単に行くとは思っていなかったからな。少なくとも、一線級の術者だけでもあのレベルに持っていければ言うこと無しだが」
兵衛は頷き、再び流也たちに視線を向けた。
以前、神凪本邸で二人が手合わせしているのを見たことがあるが、その時より動きは格段に良くなっている。
というか、兵衛の退魔師としての動体視力をもってしても殆ど追いきれない。
恐らくは内功によって身体能力を高めているのだろうが…
「流也の動きが以前と見違えてるな……お前が手ほどきを?」
「ええ。軽功術を学んでいただきました。和麻様は独学で学ばれていたようですが。」
全身に気を巡らし、その流れを操作することによって超人的ともいえる体捌きを可能にする。
確かに、軽快なフットワークがウリの風術師には相性が良いのかもしれない。
和麻も厳馬から手ほどきは受けていたようだが、結局のところ厳馬は炎術師である。
専門家である周防から学ぶことによって得られるものは大きいだろう。
「それにしても…大したものですね。あの楼鬼は中級妖魔クラスの力を持っているというのに」
と、周防とは別の声が会話に入ってきた。
高校生くらいの年齢に見える穏やかそうな顔立ちの少年。
賀茂家の嫡男である賀茂是雄である。
「陰陽師として名高い賀茂の方にそう言っていただけると、こちらとしても嬉しい限りですな」
兵衛は如才なく笑みを返した。
この鍛錬を行なうにあたっては、賀茂から模擬戦の相手役として護法童子を借り受けている。
その関係もあって、この場には賀茂家の関係者が2人、顔を見せていた。
一人は嫡男の是雄であり、もうひとりは彼の付き人らしい阿部という長身長髪の美青年であった。
「それにしても、年齢を考えればあの戦闘技能は驚異的ですらありますね。ウチに欲しいくらいですよ」
心から感心しているというように、賀茂は食い入るように模擬戦の様子を見ている。
特に、軽快なフットワークを生かして異形に肉薄し、拳打、掌打、貫手を叩き込んでいく和麻を。
気の流れを扱うのは精霊魔術よりも陰陽道の領分に近い。だからこそ、気功拳法を扱う和麻に何か思うところがあるのかもしれない。
そうして観客同士で喋っているうちに、戦闘も終わりが見えてきていた。
異形の動きが明らかに悪くなってきているのだ。
和麻が続けてきた攻撃が徐々に効果を現しはじめたのだろう。
それは浸透頚と呼ばれる、本来外側から伝わる打撃のエネルギーを外部を通過させて直接対象の内側に響かせる打法によって、
ダメージが少しづつ異形の身体に蓄積されていたのだ。
そして転機が訪れる。
「閃!」
流也が叫び、地面に砂埃が大量に舞う。
直後、異形の体勢が、まるで何かに足を掬われたかのように崩れた。
それは流也の風によって齎された好機であり、それを見逃すほどに和麻は鈍くない。
砂埃が舞い上がった時。その時には既に和麻は駆け出していた。
身体が僅かに沈んだかと思うと、ぶれるようにその姿が消え、次の瞬間には獣を思わせる速度で異形めがけて奔る。
対する異形は眼牟をぎらつかせて和麻を睨みつけているが、その動きは鈍い。
精霊術師であれば気づいたろう。
異形の双腕、双脚に、さながら蛇の如く絡みつく風の存在に。
「發ッ!!!!」
裂帛の叫びと共に、和麻が放った貫手は牛頭の鬼の胸板を貫いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ヴォオオオォォオオォオオ!!!
異形の口から絶叫が響き渡り、突如途絶えた。
動きを止めた異形の姿は、まるで風船が空気を失って萎んでいくように姿を縮めていき、
やがてそれは一枚の札に変化した。
観客席の中から賀茂是雄が進み出て、地面に舞い落ちた札を拾い上げる。
賀茂が微かに口元を動かして何事かを唱えると、札は青白い炎を上げて燃え出し、跡形もなく燃え尽きた。
「いや、今日は実に良いものを見せていただきました。」
兵衛に向き直った賀茂はそう言って深々と頭を下げた。
退魔師にとって鍛錬場に他流派のものを招き入れることは己の手の内を明かすに等しい。
故に、兵衛が賀茂の人間を鍛錬場に入れたことは、それだけでも風牙が賀茂を信頼しているというこれ以上ない意思表示になる。
もっとも、精霊術は生来の素養がものを言う技術であるから、畑違いの陰陽師に仮に一度や二度鍛錬の様子を見られたとしても、技術を盗まれる恐れは少ない。
だからこそ兵衛も賀茂を招きいれた。自分たちの懐に招き入れることで、風牙衆が賀茂を信頼しているという意思表示にはなっただろう。
その後いくつか言葉を交わした後、賀茂は辞去しようとして……
付き添いの青年が葉月に熱心に話しかけているのを見て顔を引き攣らせた。
「お嬢さん。良ければ今度駅前にオープンしたファンシーショップにでも」
「あ、あの…私、鍛錬とかがありますから」
「ほう!ならばこの私が手取り足取り…」
「この馬鹿!!よりにもよってなんて相手をナンパするんだ!!」
額に青筋を浮かべた賀茂は男の長髪を引っつかむとそのままズリズリ引き摺って鍛錬上から出て行った。
時々背後を振り返ってはぺこぺこと頭を下げながら。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
賀茂が辞去し、和麻達が立ち去った後。
広場には兵衛と周防のみが残っていた。
「成果が出ているのは分かった。…それで、問題は?」
「……現場の観点から言わせていただくなら、装備が圧倒的に不足しています。
一族全員に呪符・礼装を行き渡らせるには、今の予算では到底足りません」
兵衛の脇に控えるように黙然と佇んでいた周防はむっつりとした表情で呟くように言った。
決して大きな声ではないが、聞く者の耳にいつまでも残りそうな重厚な響きがある。
「そうは言うがな。周防」
兵衛は苦々しげに切り返す。
「我らには湯水の如く金があるわけではない。まして収入の大部分を神凪に頼っている現状ではそうそう無茶も出来ん。
……で、だ。今の予算でやりくりした場合、どの程度“もの”に出来る?」
「御付衆と当主方には如何にか。それ以上手を広げる場合、訓練に使用する符を減らすしかありませんな」
「流石にそれは拙いだろう…」
訓練に使用する分を減らすわけにはいかない。
確かに賀茂から送られてくる呪符・護符の類は、少しでも術を齧ったことのある者なら簡単に使用することができる優れものだ。
しかし、妖魔や術者との戦闘中に使用するとなれば術式発動までのタイムラグや、その効果範囲、威力、etc、etc…
それらについて充分把握していなくてはならない。
そうでなくては(個人戦はともかく)集団戦ではとても使えたものではない。
誤って味方まで巻き込んだり、標的以外にまで効果を及ぼすことがあってはならないからだ。
その点では、銃火器と似たようなものだ。
素人でも引き金を引くことは容易に出来るが、それを実際の戦場で使いこなすには多くの訓練を必要とする。
ただ、呪符と銃の違いを言うなら、前者の方が後者に比べて圧倒的に高価であるということだろう。
なにしろ銃と違って大量生産が利かない。
練達の術者が非常に複雑な工程を経て一枚一枚手作りで作成するのだから。
「まあ、贅沢を言っても仕方ありませんな。
一線級の術者のみを対象に訓練を施しつつ、彼らと若手術者を組ませて実戦経験を積ませていく……現状ではこのような所でしょう」
「……分かった。期間はどの程度見れば良い?」
「完全な調整には年単位の期間が必要です。」
「付け焼刃でもこの際構わん……無論、実戦に出しても支障のないレベルであれば、だが」
「最短で7ヶ月」
「止むを得まい」
渋い表情で兵衛が頷き、それを受けて周防が踵を返した。
そのまま立ち去ろうとしたところで、ふと思い立ったように兵衛は声をかけた。
「時に、例の史跡調査の件はどうなっている?」
「現在、“山”より借り受けた文献をあたっておりますが、それらしい記述は見当たりません」
「……そうか」
やや落胆した様子で、兵衛は答えた。
「何か依頼があったという話は聞いておりませんが。この調査に何か意味はあるのですか?」
「いや、儂の趣味のようなものだ。何も無かったのなら、それはそれで良い」
そう言って兵衛は話を終わらせた。
「儂は邸に戻ることにする。この後は葉月の鍛錬を見るのだったか?」
「はい。来月には実戦を経験なさるとの事ですので」
「ああ、くれぐれも宜しく頼む。……それではな」
行ってよしと手を振ると、周防の姿は霞のように掻き消えた。