街のどこかで、一つの炎が消えた。
それは歪み。
それは因果の歪曲。
そして、それを正そうとする者達は……
灼眼のシャナ 存在なき探求者
第8話 初戦と誤算
「春先とはいえ、流石に夜は冷え込むな」
家を出た悠二は着崩していたコートのボタンを締めた。
その場で暫く目を閉じスゥッ…と息を吐く。
やがて再び目を開けると、
「あちらか…」
小さく呟いて、フラリと歩き始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「い…やぁ…………」
少女は脅え、後ろに下がる。
「…………」
ズルッ…ズルッ……
何かを引き摺るような音を立てて、レインコートを着込んだ“なにか”は少女に迫る。
「こ、来ないで……」
背中が壁に当たり、そのまま腰を抜かしたように地面に座り込む。
下半身から刺激臭。失禁してしまったらしい。
切っ掛けはほんの偶然だった。
部活を終え、学校からの帰り道。
普段なら真っ直ぐ家に帰るところを友人に誘われて繁華街に遊びに行ってしまったのだ。
門限にうるさい両親も今日は出かけており、多少帰るのが遅くなっても叱る者はいない。
少し前に友人たちとも別れ、家路に着こうとしていたときに、彼女は見てしまった。
目の前にいるレインコートを着た何者かが、“人を喰らう”ところを…
どうやったのかは解らないが、コートの中から人間のものとも思えない巨大な腕が飛び出し、
OL風の女性の身体を鷲掴みにしたかと思うと、女性の身体が勢いよく燃え出してコートの中に吸い込まれていったのだ。
少女は迷わず逃げ出した。
目の前で起きた出来事はとても現実とは思えない荒唐無稽なものだったが、それでも少女の本能は警鐘を鳴らしていた。
このまま留まれば“自分も食われる”と。
そして現在。
袋小路に追いつめられ、レインコートの化け物は彼女まで数メートルという位置まで来ていた。
少女は腰を抜かし、立てない。
その時。
劫!!!
少女とレインコートの間に火球が着弾し、爆ぜた。
少女の悲鳴が上がるが、威嚇目的だったらしいそれは直ぐに掻き消える。
それはレインコートの注意を逸らすには充分だったらしく、少女をそのまま放置して後ろに向き直った。
そこには黒いコートを身に纏った悠二が立っていた。
どこか観察するような眼で“徒”を見る。
「封絶も使えない成りたてか…いずれにせよ―――」
「キキキキキキ!!」
悠二が言い切る前に、レインコートはけたたましい金切り声を上げて炎を放ってきた。
浅黄色のそれは威力だけ見ればなかなかのもので、悠二は身を捻ってそれを避ける。
「好戦的な…」
ぼそっと呟いて、悠二は一歩前に進み出た。
月明かりが悠二の顔を照らし出し、それを見た少女が驚きの声をあげる。
「ぇ……さ、坂井……君…?」
「!?……ッチ!封絶!」
突然名前を呼ばれた悠二は少女の顔を見て絶句し、すぐさま封絶を展開する。
『むぅ…こぉの少女は確か君の学校の―――』
「同じクラスだよ。嗚呼クソ…最悪だ…」
驚愕の表情を張り付かせたまま静止している少女を見て悠二は舌打ちを漏らす。
続いて、凍てつくような視線でレインコートの異形を睨んだ。
「手を出す相手を間違えたな」
呟くのと同時に、悠二の姿が一瞬ぶれる。
同時に、異形の身体が弾かれたように横に吹き飛び、轟音と共に壁に激突した。
「砕!!」
続いて駄目押しとばかりに薄緑の炎弾が異形めがけて撃ち込まれる。
先ほどの威嚇用と違い、破壊を目的として膨大な存在の力を込められた炎は一撃で異形を粉砕した。
辺りに再び静けさが戻る。
「―――ふぅ」
悠二は小さく溜息を吐くと、封絶内の事物を修復にかかった。
具体的に言うと先程“徒”を壁にめり込ませた上に炎弾を浴びせたせいでイイ具合に崩れかかっている賃貸ビルとか。
建物はこれでいいとして、問題は人のほうだ。
「よりによって……なんで藤田さんがこんなところに」
封絶を解除していないために、未だに驚愕の表情のまま静止している少女。
御崎高校1年2組クラス副委員の藤田晴美に目を向けた。
「このまま封絶解いたらどうなると思う?」
『封ぅー絶発動のタァイミングからいって、記ぃ憶が消えてるかどぉーうかは微妙ですね。
もぉし消えてなかったら……正体がバレますね。確ぁく実に。』
「……どうするよ。」
『どぉーうにもなぁりませんね。いっそのこと美ぉー味しく頂いて口封じしたらどうです?』
「!…存在の力を食らえってことか?」
途端、悠二の眼牟が鋭く細まり、語調が刺々しくなる。
『別に…通俗的な意味で“いただいちゃう”と言ぃうことでも構わないですが?』
「……はい?」
通俗的な意味で……食っちゃう?
それはつまり、抵抗できない藤田さんを押し倒して……
想像した途端、自分の顔に血が上ってくるのがわかった。
「な!ふ、ふざけるな!!」
『おぉや、おぉー気に召しませんか?』
「………………………………………………………………当たり前だ!!」
『今…躊躇いましたね?』
頭の中で教授がニヤリと笑う気配が伝わってくる。
「だまっぷ教授!とにかく、修復も終わったし…封絶を解くぞ!」
『良ぃいんですか?』
「このまま放置するわけにもいかんでしょ。なるようになるさ」
『人、それを行き当たりばったりと呼ぶ』
「うっさいな!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一体目の前で何が起きているんだろうか。
晴美はぼんやりとそんな事を考える。
自分の目の前で、立て続けに起きた非現実的な事象の数々に思考が麻痺してしまったのだろうか?
(坂井君が現れて……それで……)
レインコートを着た化け物―――とてもヒトには見えなかった―――に追いかけられ、袋小路に追い詰められた。
もう駄目かと思ったその時。
化け物の行く手を遮るように炎が眼前に広がり、あの少年の声が聞こえてきた。
それから……どうなったのだろうか?
ふと気が付くと、あのレインコートを着たおぞましい怪物は影も形も無く消え失せ、辺りを静寂が支配していた。
目の前には自分が通う高校のクラスメート、坂井悠二が奇妙な表情で立ち尽くしている。
「あー、藤田さん?大丈夫?」
「ぇ…………」
馬鹿みたいに口をぽかんと開けて聞き返す。
「急に倒れちゃって……驚いたよ。あの変質者なら追い払ったからもう心配は―――」
心配げな顔で手を差し伸べてくる悠二の姿に、晴美は混乱した。
(え……どういう事?あれは……ゆ…め…?)
そんな莫迦な。
しかし言われてみると、アレが現実に起きた出来事かどうか自信が持てなくなってくる。
冷静になって考えてみればヒトの身の丈ほどもある凶悪な鉤爪を持った二足歩行の生き物など、この世にいるはずもない。
痴漢か通り魔にでも襲われて、取り乱して……幻覚でも見てしまったのだろうか?
時間が経ち、落ち着いてくるにつれて徐々に晴美はそう思い始めていた。
実のところ、これも“封絶”と、その後の“因果修復”による付加効果なのだが、そんな事は彼女の知るところではない。
「あ、ありがとう。……驚いたわ、あんな大柄な男を追い払うなんて。強いのね?」
緊張が抜けきらないのか、やや強張った表情で悠二が差し伸べてきた手を握り返す。
その様子に、悠二は引き攣った笑いを漏らした。
「は…はは。大した事じゃないさ、何はともあれ無事でよかったよ」
内心では晴美が巧く誤魔化されてくれたことに対して喝采をあげている。
どうやらレインコートを着た異形の化け物は、大柄な男の変質者か通り魔ということで納得してくれたらしい。
「家まで送ろうか?」
「いえ、いいわ。家、この近くだから。良かったら寄っていく?お茶くらい出すわよ」
「いや、この後行くところがあってね。また今度って事で。それに…」
そう言って悠二は刺激臭を放っている晴美のスカートに目を向ける。
その動きに釣られるように、晴美も自分の下半身を見て、
「…………っ!!」
顔を真っ赤にして押し黙る。
「は、はは……ま、ともあれ無事で良かったよ。帰って休んだほうがいい」
警察に行け、とは言わない。
晴美も混乱しているらしく、何やらもごもごとと呟いた後、
「そ、そう。じゃあお礼はまた今度ね。」
努めて悠二の顔を見ないようにしながら、小さく言った。
「あ…別に礼なんて」
「私の気が治まらないのよ…助けてもらったんだから。それじゃまた明日ね……坂井君」
「ああ、それじゃ…また明日」
晴美も疲労していたのだろう。
手早く会話を切り上げて、路地の向こう―――多分彼女の家がある方向に向かって歩いていき、やがて角を曲がって見えなくなった。
彼女が視界から完全に消えたのを確認して、悠二は大きく息を吐いた。
「ふーーー、何とか…記憶は消えてたみたいだな」
『完全ではなぁいようですがね……何かの拍子に思い出さなければ良ぃいんですが』
「注意が必要……か」
晴美が消えた先をじっと見詰めながら、悠二は自分に言い聞かせるように呟いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「本当…今日は疲れたわ」
晴美は家に辿り着くと、直ぐにシャワーを浴びて寝巻きに着替え、自身のベッドの中にもぐりこんだ。
偶に門限を破ってみれば変質者に追い掛け回され、挙句お漏らしまでして……
そこまで考えが及んだところで頭がズキンと痛んだ。
「っ!」
苦痛に顔をゆがめて布団に突っ伏す。
(……よっぽどショックが大きかったって事?)
自分の身体の状況を務めて冷静に分析してみる。
確かに、先程は本当に危なかった。
クラスメートが助けに来てくれなければ、どうなっていた事か。
「坂井君…か」
彼―――坂井悠二とは同じクラスだったが特に親しいわけでもなかった。
高校に入学して、彼と知り合ってから一月も経っていないし、取り立てて友達付き合いをしてきたわけでもないので、
これまでに二言三言、言葉を交わしたことがあるという程度。その程度の付き合いだった。
第一印象から言うなら、あまり好いてはいなかった。
吉田一美と付き合う傍らで他の女にも手を出していると噂されており、少なくとも好んでお近づきになりたい相手とは思わなかったのだ。
だが………今日ばかりは彼がいてくれたことを天に感謝したい。
大柄な変質者を倒して自分を助けてくれた姿が、困ったような笑顔で手を差し伸べてくれた光景が頭に浮かんだ。
「彼がもてる理由…解った気がするわ…」
ふと、そんな言葉が口をついて漏れ、自分が言った言葉の意味に晴美は赤面した。
「………馬鹿馬鹿しい!………もう寝よ」
ばふっと布団に顔を埋め、暫くしてから寝返りを打って眼を閉じる。
彼女の布団から静かな寝息が聞こえ始めたのは、それから5分後のことだった。